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"花飾りをつけたデュ・バリー夫人" フランソワ=ユベール・ドルエ(fr )画、(ルイ15世との初対面時の)1769年、ヴェルサイユ宮殿 蔵デュ・バリー夫人 (デュ・バリーふじん, Madame du Barry, 1743年 8月19日 - 1793年 12月8日 [1] )は、ルイ15世 の公妾 。本名マリ=ジャンヌ・ベキュー (Marie-Jeanne Bécu)。
生涯 フランソワ=ユベール・ドルエ(fr )画、1770年、プラド美術館 蔵 フランス のシャンパーニュ 地方(現在のムーズ県 ヴォクルール(フランス語版 ) )の貧しい家庭に、アンヌ・ベキューの私生児として生まれた。弟が生まれて間もなく母は駆け落ちし、叔母に引き取られて育った。7歳の時、再婚した母に引き取られてパリ (現在のパリ5区 など)で暮らし始めたジャンヌは、金融家の継父から大層かわいがられ、まともな教育を受けさせてもらえた。15歳で修道院での教育を終えると、初めはある家の侍女をしていたが、素行上の問題から解雇される。その後、男性遍歴を繰り返し娼婦 同然の生活をしていたようだが、1760年 にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始めた。美しいジャンヌは、やがてデュ・バリー子爵 に囲われると[矛盾 ⇔ :fr:Madame du Barry ] 、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ 会員などがジャンヌの相手となり、その時に社交界でも通用するような話術や立ち居振舞いを会得したと推測される。
1769年 にルイ15世に紹介された。その5年前にポンパドゥール夫人 を亡くしていたルイ15世は、ジャンヌの虜になって彼女を公妾にすることに決める。デュ・バリー子爵の弟と結婚してデュ・バリー夫人 と名を変えたマリ・ジャンヌは、型どおりの手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾になり、社交界 にデビューした。
ヴィジェ=ルブラン 画、1782年、コーコラン美術館 蔵フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、その頃オーストリア からフランス王太子ルイ=オーギュスト(後のルイ16世 )に嫁いでいたマリー・アントワネット と対立した。娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジア の影響を受けたマリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を徹底的に憎んでいたのである。加えて、かねてデュ・バリー夫人の存在を疎んじていたルイ15世の娘であるアデライード王女 、ヴィクトワール王女 、ソフィー王女 らが、宮廷で最も身分の高い婦人であるマリー・アントワネットを味方につけようと画策したことが、この対立を一層深めた。とはいえ、デュ・バリー夫人は朗らかで愛嬌がある親しみやすい性格で、宮廷の貴族たちからは好かれていたという。
"連行されるデュバリー夫人" 作者不詳、1897年以前制作1774年 4月27日に天然痘 で倒れたルイ15世の看病に努めていたデュ・バリー夫人だったが、5月9日にはポン・トー・ダム修道院へ入るよう命令が出され、危篤に陥ったルイ15世から遠ざけられた。追放同然に宮廷を追われた彼女は不遇な一時期を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官 (fr ) などの人脈を使って、パリ郊外のルーヴシエンヌ に起居し、優雅に過ごすようになった。その後はド・ブリサック(英語版 ) 元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になった。
1789年 に勃発したフランス革命 により、愛人だったパリ軍の司令官ド・ブリサック元帥を虐殺された後、1791年 1月にイギリス へ逃れ、亡命貴族 たちを援助した。しかし1793年3月に帰国した際に革命派に捕らわれると、12月7日にギロチン 台へ送られた。
この時の死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソン と知己であった彼女は、泣いて彼に命乞いをした。しかし、これに耐えきれなかったサンソンは息子に刑の執行を委ね、結局デュ・バリー夫人は処刑された。50歳没。なぜ彼女が危険を冒して帰国したのか真相は定かでないが、革命政府によって差し押さえられた自分の城にしまっておいた宝石を取り返すのが目的だったという説がある。
評価 ヴィジェ=ルブラン画、1789年、私蔵品 死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソン も手記に「みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」と書き記している。[2]
逸話 ジャン=バティスト・アンドレ・ゴーチエ=ダゴティ(fr )画、18世紀制作 (詳細年不詳)、ヴェルサイユ宮殿蔵 ルイ15世がカリフラワー を好んでいたことにちなみ、カリフラワーのポタージュはクレーム・デュ・バリー(crème du Barry)と呼ばれている[3] 。 1769年 にルイ15世の公妾になった際、王はイヴリーヌ県 のルーヴシエンヌ城をアンジュ=ジャック・ガブリエル に改装させてデュ・バリー夫人に贈った。以来、この城は「シャトー・ド・マダム・デュ・バリー 」と呼ばれるようになった。この城はフランスの国定史跡となったが、資金不足から雨漏りなど老朽化が進み、1989年に高級ホテルとしての再生利用を条件に日本人実業家・横井英樹 に売却された[4] [5] [6] 。しかし調度品がオークションにかけられたほか、城は放置状態となったため、盗難や不法侵入者の占拠などで荒廃が進み、横井の在仏関係者らが詐欺などの疑いで逮捕収監された[4] 。その後、フランスの投資家が購入し、現在の姿に修復された。登場する作品 小説 映画 漫画 アニメ ゲーム 脚注 参考文献 関連書籍 関連項目 外部リンク
主要事件
1788年 屋根瓦の日 (1788年6月7日) ヴィジーユ会議(英語版 ) (1788年7月21日) 1789年 1790年 1791年 1792年 1793年 1794年 1795年 1797年 1799年
1792年 1793年 1794年 ヴィレ=アン=コシの戦い (en ) (1794年4月24日) ブルの戦い (en ) (1794年4月30日-5月1日) トゥルネーの戦い (en ) (1794年5月22日) フルーリュスの戦い (en ) (1794年6月26日) ふくろう党の反乱 (en ) トゥールコワンの戦い (en ) (1794年5月18日) アルデンホーフェンの戦い (en ) (1794年10月2日) 1795年 1796年 ロナートの戦い (en ) (1796年8月3日-4日) カスティリオーネの戦い (1796年8月5日) タイニンゲンの戦い (en ) ネレスハイムの戦い (en ) (1796年8月11日) アンベルクの戦い (en ) (1796年8月24日) ヴュルツブルクの戦い (en ) (1796年9月3日) ロヴェレートの戦い (en ) (1796年9月4日) 第一次バッサーノの戦い (en ) (1796年9月8日) エメンディンゲンの戦い (en ) (1796年10月19日) シュリーンゲンの戦い (en ) (1796年10月26日) 第二次バッサーノの戦い (en ) (1796年11月6日) カッリアーノの戦い (en ) (1796年11月6日-7日) アルコレの戦い (1796年11月15日-17日) アイルランド遠征 (1796年12月) 1797年 1798年 エジプト遠征 (1798年-1801年) マニラ奇襲 (1798年1月) 1798年アイルランド反乱 (en ) (1798年5月23日-9月23日) 擬似戦争 (1798年-1800年) 農民戦争 (en ) (1798年10月12日-12月5日) 1799年 第二次対仏大同盟 (1798年-1802年) アッコ包囲戦 (1799年3月20日-5月21日) オストラッハの戦い (en ) (1799年3月20日-21日) シュトックアッハの戦い (en ) (1799年3月25日) マニャーノの戦い (en ) (1799年4月5日) カッサーノの戦い (en ) (1799年4月27日) 第一次チューリッヒの戦い (en ) (1799年6月4日-7日) トレッビアの戦い (en ) (1799年6月19日) ノーヴィの戦い (en ) (1799年8月15日) 第二次チューリッヒの戦い (en ) (1799年9月25日-26日) 1800年 1801年 リュネヴィルの和約 (1801年2月9日) フィレンツェ条約 (en ) (1801年3月18日) アルヘシラス湾の戦い (en ) (1801年7月8日) 1802年
軍事指揮官
フランス陸軍 フランス海軍対仏大同盟軍