ディック・グロート

アメリカの野球、バスケットボール選手 (1930 - 2023)

リチャード・モロー・グロートRichard Morrow "Dick" Groat, 1930年11月4日 - 2023年4月27日[1])は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ウィルキンスバーグ出身のプロ野球選手遊撃手)・元プロバスケットボール選手。右投右打。

 ディック・グロート 
Dick Groat
1960年
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地ペンシルベニア州ウィルキンスバーグ
生年月日 (1930-11-04) 1930年11月4日
没年月日 (2023-04-27) 2023年4月27日(92歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手
プロ入り1952年 アマチュアFA
初出場1952年6月19日
最終出場1967年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
ディック・グロート
Dick Groat
デューク時代のグロート
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1930-11-04) 1930年11月4日
没年月日 (2023-04-27) 2023年4月27日(92歳没)
出身地ペンシルベニア州ウィルキンスバーグ
身長180cm (5 ft 11 in)
体重72kg (159 lb)
キャリア情報
高校スイスヴェール高等学校
大学デューク大学
NBAドラフト1952年 / 1巡目 / 全体3位[1]
プロ選手期間1952年–1953年
ポジションポイントガード
背番号歴5
経歴
1952–1953フォートウェイン・ピストンズ
受賞歴
NBA通算成績
得点数309 (11.9 ppg)
アシスト数69 (2.7 asp)
リバウンド数86 (3.3 rpg)
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
カレッジバスケットボール殿堂入り (2007年)

MLBNBAの両方でのプレー経験があり、2013年時点で「アメリカ大学野球殿堂入りと全米カレッジバスケットボール殿堂入りの両方を果たした唯一の選手」である。

甥はプロゴルファーブルックス・ケプカである。

経歴

デューク大学時代は野球バスケットボールの両方でオールアメリカン(全米代表チーム)に選ばれており[2]、両スポーツで優秀な実績を残した。特にバスケでは839ポイントのNCAAシーズン記録も樹立した[3]

大学を卒業した数日後にアマチュアフリーエージェントとして、ブランチ・リッキーゼネラルマネージャーを務めるMLBピッツバーグ・パイレーツと契約を交わした[2]。初年の1952年にいきなり遊撃手として95試合に出場し、同年の新人王投票でも3位の得票率を獲得した[4]。また、1952年のNBAドラフトでNBAフォートウェイン・ピストンズから1巡目(全体3位)指名を受けて入団しており、この野球シーズンのオフにピストンズで1シーズンのみプレーしている。

1953年1954年アメリカ陸軍で兵役に就いていたために試合に出場することが出来なかった[2]

1955年にピストンズには戻らず、パイレーツに復帰した。

1960年打率.325で首位打者のタイトルを獲得し、MVPも受賞した。以後、ナショナルリーグ遊撃手の打撃タイトル獲得者は2009年まで40年近く現れなかった(2009年にフロリダ・マーリンズハンリー・ラミレスが打率.342で首位打者獲得)[2]。チームもこの年にナショナルリーグを制覇しており、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズ第7戦の4-7と3点リードされた8回裏にグロートは反撃の口火となる適時打を放った。パイレーツはこの回に一挙5点を取り、9-7と逆転した。9回表にヤンキースに同点に追い付かれたが、9回裏にパイレーツは先頭打者のビル・マゼロスキーワールドシリーズ史上初となる劇的なサヨナラ本塁打を放ち、ワールドチャンピオンに輝いた。

1962年11月19日にドン・カードウェルらとの交換トレードセントルイス・カージナルスへ移籍した。

1964年ワールドシリーズでカージナルスが4勝3敗でヤンキースを破り、2度目のワールドチャンピオンを経験した。

1965年10月27日にビル・ホワイトらとのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍した。

売却する形で1967年6月22日にサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍したが、1967年はトータルで打率.156しか残せず、この年限りで現役を引退した。

ヒットエンドランの達人であり、パイレーツ時代は堅実な守備で二塁手のビル・マゼロスキー(後に守備が評価されてアメリカ野球殿堂入り)と鉄壁の二遊間を形成した。打撃の方は非力であったが、打率3割以上を4度記録した。オールスターゲームには通算で5度(1959・1960・1962・1963・1964年)選出されている。

2011年にアメリカ大学野球殿堂入りを果たした[5]。4年前の2007年にはアメリカ大学バスケットボール殿堂入りしているため[2]、「アメリカ大学野球殿堂とアメリカ大学バスケットボール殿堂の両方で殿堂入りを果たした最初の(2013年時点で唯一の)選手」となった。

2023年4月27日死去。92歳没[1]

詳細情報

MLB年度別打撃成績

















































O
P
S
1952PIT9541538438109611120292411--19--12718.284.319.313.632
19551515725214513928241835102111381112620.267.317.351.669
1956142575520401421930167370317335302514.273.317.321.638
1957125551501581583057219540114627132816.315.350.437.787
195815162158467175369323866226523743221.300.328.408.735
195914764159374163227521451029432223521.275.312.361.673
196013862957385186264222650021213904357.325.371.394.766
196114864859671164256621955047440014422.275.320.367.687
196216172367876199343224561215631136114.294.325.361.686
1963STL158704631852014311628473317456265818.319.377.450.827
196416169663670186356123670239744304215.292.335.371.706
196515365558755149265018552114756215011.254.316.315.632
1966PHI15564058458152214218753217440653820.260.311.320.631
19671031263300031001040040.115.233.115.349
SFG347870412110154002061073.171.237.214.451
'67計441099671511018500301010113.156.236.188.423
通算:14年1929817974848292138352673927417071427122524903931512220.286.330.366.696
  • 各年度の太字はリーグ最高

MLBにおけるタイトル

MLBにおける表彰

MLBでの背番号

  • 24 (1952年 - 1967年) 
  • 20 (1967年) 

NBA個人成績

略称説明
  GP出場試合数  GS 先発出場試合数 MPG 平均出場時間
 FG% フィールドゴール成功率 3P% スリーポイント成功率 FT% フリースロー成功率
 RPG 平均リバウンド APG 平均アシスト SPG 平均スティール
 BPG 平均ブロック PPG 平均得点 太字 キャリアハイ

レギュラーシーズン

シーズンチームGPMPGFG%FT%RPGAPGPPG
1984–85FTW2625.5.368.7903.32.711.9

NBA通算成績

レギュラーシーズン (1シーズン)
26試合総計ゲーム平均40分平均
ポイント数30911.918.6
リバウンド数863.35.2
アシスト数692.74.2

NBAでの背番号

  • 5 (1952年 - 1953年)  

出典

関連項目

外部リンク