テニソン男爵
テニソン男爵(テニソンだんしゃく、英語: Baron Tennyson)は、連合王国貴族の男爵位。
テニソン男爵 | |
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Arms:Gules a Bend nebuly Or thereon a Chaplet in the chief point Vert between three Leopards' Faces jessant de lys of the second Crest:A Dexter Arm in Armour the hand in a Gauntlet Or grasping a Broken Tilting Spear enfiled with a Garland of Laurel Supporters:On either side a Leopard rampant guardant Gules semy de lys and ducally crowned Or | |
創設時期 | 1884年1月24日 |
創設者 | ヴィクトリア |
貴族 | 連合王国貴族 |
初代 | 初代男爵アルフレッド・テニスン |
現所有者 | 6代男爵デイヴィッド・テニソン |
相続人 | なし |
推定相続人 | アラン・テニソン閣下 |
付随称号 | なし |
現況 | 存続 |
モットー | Respiciens Prospiciens (Look backward and forward) |
1884年に詩人アルフレッド・テニソンが叙されたのに始まる。
歴史
詩人アルフレッド・テニソン(1809-1892)は、17年にわたって推敲したアーサー・ハルムを追悼する長詩『イン・メモリアム』を1850年に発表し、桂冠詩人の称号を得た[1]。その後もバラクラヴァの戦いでのイギリス軽騎兵の突撃を描いた『軽騎兵の突撃』やアーサー王伝説を描いた『王の牧歌』、妻の幸せを願って死にゆく水夫を描いた『イノック・アーデン』などの詩を発表した[2][1]。そして1884年1月24日の勅許状で連合王国貴族サセックス州アルドワース及びワイト島フレッシュウォーターのテニソン男爵(Baron Tennyson, of Aldworth in the County of Sussex and of Freshwater in the Isle of Wight)に叙せられた[1][3][4][5]。
初代男爵の死後、その長男であるハラム・テニソン(1852–1928)が2代男爵を継承した[3][5]。彼は1902年から1904年にかけてオーストラリア総督を務めた[6][7]。
2代男爵の死後はその長男であるライオネル・テニソン(1889–1951)が3代男爵[3]、彼の死後はその長男ハロルド・クリストファー・テニソン(1919–1991)が4代男爵を継承した[3][8]。
子供がない4代男爵が死去すると弟(3代男爵の次男)のマーク・オーブリー・テニソン(1920–2006)が5代男爵を継承したが、彼にも子供がないため[3][9]、彼の死後には初代男爵に遡った分流(初代男爵の次男ライオネルの曽孫)にあたるデイヴィッド・ハロルド・アレグザンダー・テニソン(1960-)が6代男爵を継承した。彼が2016年現在の当主である[3]。
テニソン男爵 (1884年)
- 初代テニソン男爵アルフレッド・テニソン (1809–1892)
- 2代テニソン男爵ハラム・テニソン (1852–1928), 初代男爵の長男
- 3代テニソン男爵ライオネル・ハラム・テニソン (1889–1951), 2代男爵の長男
- 4代テニソン男爵ハロルド・クリストファー・テニソン (1919–1991), 3代男爵の長男
- 5代テニソン男爵マーク・オーブリー・テニソン (1920–2006), 3代男爵の次男
- 6代テニソン男爵デイヴィッド・ハロルド・アレグザンダー・テニソン (1960-), 初代男爵の次男ライオネルの曽孫
- 推定相続人は現当主の兄弟アラン・ジェイムズ・ドラモンド・テニソン (1965-)
脚注
出典
参考文献
- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。