チャールズ・ミンガス

チャールズ・ミンガスCharles Mingus1922年4月22日 - 1979年1月5日)は、アメリカ合衆国ジャズ演奏家(ベーシスト作曲家バンドリーダー、時にピアニスト)。人種差別反対活動でも有名だった。

チャールズ・ミンガス
Charles Mingus
チャールズ・ミンガス(1976年)
基本情報
生誕1922年4月22日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 アリゾナ州
死没 (1979-01-05) 1979年1月5日(56歳没)
メキシコの旗メキシコ
ジャンルジャズハード・バップフリー・ジャズアヴァンギャルド・ジャズ
職業ベーシストバンドリーダー作曲家
担当楽器ベースピアノ
活動期間1943年 - 1979年
レーベルデビュー・レコード
アトランティック・レコード
コロムビア・レコード
インパルス!レコード
公式サイトmingusmingusmingus.com

略歴

1943年ルイ・アームストロングのバンドで活動。1945年に初レコーディングを経験。1950年代前半には、チャーリー・パーカーバド・パウエルと共演し、ベーシストとして名を広めていく。また、自分のレーベル、デビュー・レコードを立ち上げた。このレーベルの音源としては、チャーリー・パーカー(契約上の問題でチャーリー・チャンと表記された)やディジー・ガレスピーと共演した『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』が有名だが、ベースの音量が小さかったため、ミンガスがベースをオーバー・ダビングしたというエピソードがある。

1956年、ジャズに物語的要素を持ち込んだ『直立猿人』を発表し、作曲家としてもバンド・リーダーとしても名声を高めた。1959年発表の『ミンガス・アー・アム』には、リトルロック高校事件に応じて人種差別主義者の白人知事を皮肉った「フォーバス知事の寓話」や、後にジョニ・ミッチェルジェフ・ベックがカヴァーした「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」を収録した。

1962年にはタウン・ホールでコンサートを開いたが、その際にジャズ・マンのフェス・ウィリアムズに対して、共演するよう誘ったという[1]。同年発表の『オー・ヤー』では、ベースを弾かずにボーカルとピアノを担当し、新たな一面を見せた[2]。その後、ミンガス自身によるピアノ・ソロ作品『ミンガス・プレイズ・ピアノ』も発表。ミンガスのバンドには、ジョン・ハンディ、エリック・ドルフィーローランド・カーク等のプレイヤーが出はいりしてきた。1962年には、穐吉敏子も一時的に在籍した。

1960年代後半は活動が停滞するが、1970年代に入ると再び活動が活発化した。シンガーソングライターのジョニ・ミッチェル[3]は、ジャコ・パストリアス等のメンバーを従え、ミンガスに捧げるアルバム『ミンガス』を制作。ミンガス本人もレコーディングに立ち会ったが、アルバム完成前に亡くなり、1979年7月、ミンガスへの追悼盤という形で発表された。

晩年は、筋萎縮性側索硬化症で車椅子生活となり、ベースを弾けなくなったが、作曲・編曲活動は死の直前まで続けていた。

ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第2位に選ばれている[4]

ディスコグラフィ

リーダー・アルバム

ミンガス・ビッグ・バンドによる没後アルバム

いずれのミンガス・ビッグ・バンド作品においてもチャールズ・ミンガス自身は演奏していない。

  • 『サムシング・ライク・ア・バード』 - Something Like A Bird (1979年、Atlantic)
  • 『ミー、マイセルフ・アン・アイ』 - Me, Myself An Eye (1979年、Atlantic)
  • 『エピタフ』 - Epitaph (1990年、Columbia)
  • 『ミステリアス・ブルース』 - Mysterious Blues (1990年、CANDID)

その他のアルバム

参考文献

  • チャールズ・ミンガス『ミンガス:自伝・負け犬の下で』ネル・ キング編、稲葉紀雄訳、黒田晶子訳、晶文社 1973年 のち再版 1998年 ISBN 4-7949-1257-9 ( ISBN 978-4-7949-1257-2 )
  • 植草甚一『ぼくたちにはミンガスが必要なんだ』晶文社〈植草甚一スクラップ・ブック〉1976年のち 新装版 2005年 ISBN 4-7949-2574-3 ( ISBN 978-4-7949-2574-9 )
  • ジャネット・コールマン、アル・ヤング 『ミンガス/ミンガス:2つの伝説』 ブルース・インターアクションズ〈P-Vine Books〉2010年 ISBN 978-4-86020-371-9

脚注

関連項目

外部リンク