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チアトゥラ (グルジア語 : ჭიათურა 、英 : Chiatura )は、ジョージア のイメレティ州 にある都市。人口は1989年でおよそ3万人、2014年でおよそ1万2803人。地名は「虫」という意味で、同国の著名な作家、アカキ・ツェレテリがその曲がりくねった街路から発想を得て命名した。クヴィリラ河岸の盆地に位置し、標高は150mほど。1879年からコーカサス におけるマンガン 採掘の中心地となっており、産出されたマンガンは鉄路でゼスタポニ の鉄合金工場に運搬される。
ツェレテリ国立劇場、学校が10校、ジョージア技術大学 の学部、10世紀から11世紀にかけ築かれたムグヴィメヴィ大聖堂などがある。26のロープウェイ が市民の重要な足になっているほか、マンガン採掘用の50以上のロープウェイがある。
1877年に市街近くでマンガンの地下鉱山が開山したが、1990年代に国営鉱山企業のチアトゥラマンガヌミが破産を宣言し、2004年にロシアのエフラズホールディング社に1250万米ドルで売却された。
第一次世界大戦 までは、チアトゥラは世界シェアの4、5割を産出する世界最大のマンガン採掘地であった。1879年以降は鉱山をオーバーハウゼン の「よい希望のロッジ」、「フリードリヒ・クルップAG 」、ゲルゼンキルヒェン=シャルケの「鉱山・精錬所組合」、ゲルゼンキルヒェン の「鉱山株式会社」、ハンブルク の「白人鉱山協会」などのドイツ資本が独占したため、産出されたマンガンはほとんどドイツで消費された。10月革命 後もロシアとジョージアの重工業を支えたが、現在はほとんど枯渇している。
1924年8月28日から始まった八月蜂起(英語版 ) では、ボリシェヴィキ の支配に対してコーカサス南部の諸都市のなかで最後まで抵抗した。
1992年、チアトゥラの電気・ガス・水道は崩壊状態に陥った。うち電気は2004年に復旧したが、ガスと水道は依然として不通で、3日から5日ごとに30分間水が流れるぐらいしかない。そのため、飲料水は市内の噴水から汲み取ってくる必要がある。近代的な住宅、果ては高層ビルまでもが暖を薪ストーブでとっている。このような不便な生活により、人口は往時から半減した。
姉妹都市 参考文献 Horst Benneckenstein: Transkaukasien: Expansionsziel des deutschen Imperialismus vor dem ersten Weltkrieg . In: Fritz Klein (Hrsg.): Studien zum deutschen Imperialismus vor 1914 , Akademie-Verlag, Berlin 1976 Franz Beyschlag, Paul Krusch: Deutschlands künftige Versorgung mit Eisen- und Manganerzen: Ein lagerstättenkundliches Gutachten . Scholem, Berlin 1917 Giorgii Margiani: Samtamodno mretveloba da samretsvolo proletariati revoluciamdel sakartrelosi . Tbilisi 1968 外部リンク ウィキメディア・コモンズには、
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