スベトラーナ・ボギンスカヤ
スヴェトラーナ・レオニドヴナ・ボギンスカヤ(ロシア語ラテン翻字: Svetlana Leonidovna Boguinskaia, 1973年2月9日 - )は、ベラルーシ出身の元体操競技選手。
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | ![]() | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
旧国籍 | ![]() ![]() | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1973年2月9日(51歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生誕地 | ![]() ![]() | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 162cm[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 41kg[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代表 | 1987年 - 1991年(ソ連) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
引退 | 1997年 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
略歴
もともとフィギュアスケートをやっていたが、6歳で体操を始め、8歳からモスクワで指導を受ける。
ソビエト連邦代表として、1987年世界体操競技選手権(ロッテルダム)で初のメダルを獲得した。翌年のソウル五輪でも、団体総合・跳馬の優勝を含む4つのメダルを獲得。しかし、五輪終了3日後に、コーチのリュボフィ・ベガックが自殺。プレッシャーから精神的に追いつめられていたこともあり、引退してしまう[2]。
翌1989年に代表復帰。1989年世界体操競技選手権(シュトゥットガルト)では、ついに個人総合優勝を果たす。1990年の欧州選手権では、個人全種目で優勝。体操選手としてはやや長身かつ女性らしい体型で、小柄で痩身の選手が活躍する時代にあって、優美で艶やかな演技に定評があった[2]。
しかし、1991年にソビエト連邦が崩壊。翌1992年バルセロナオリンピックには独立国家共同体(EUN)として出場し、十分とは言えない練習環境の中、ボギンスカヤもエースとして活躍。団体総合優勝10連勝[3] を達成し、ソ連の有終の美を飾った。個人総合では、チームメイトのタチアナ・グツーが番狂わせ[4] で優勝。接戦の末5位に終わったボギンスカヤは、グツーを抱きしめて祝福した。
競技選手を引退し、米国でショー出演やコーチをしていた。1994年になって、テレビで体操の国際大会を「観客」の側から見て感動し、現役復帰を決意[2]。ドミニク・モセアヌとともにベラ・カロリーの指導を受けた[5]。1995年世界体操競技選手権(福井県鯖江市)では個人総合16位だったが、1996年の欧州選手権個人総合で2位となった。同年のアトランタ五輪にも出場し、メダルこそ届かなかったが、個人総合で14位、跳馬で5位入賞した。
脚注
外部リンク
- 世界体操殿堂>スヴェトラーナ・ボギンスカヤ(英語)
- スベトラーナ・ボギンスカヤ - 国際体操連盟のプロフィール
- スベトラーナ・ボギンスカヤ - Olympedia