ストーンウォールの反乱

ストーンウォールの反乱(ストーンウォールのはんらん、英語: Stonewall riots)は、1969年6月28日ニューヨークゲイバーストーンウォール・イン(Stonewall Inn)」が警察による踏み込み捜査を受けた際、居合わせた「LGBTQ当事者らが初めて警官に真っ向から立ち向かって暴動となった事件」と、これに端を発する一連の「権力によるLGBTQ当事者らの迫害に立ち向かう抵抗運動」を指す。

ストーンウォール・イン

この運動は、後にLGBTQ当事者らの権利獲得運動の転換点となった。ストーンウォールの暴動ともいう[1]

なお本項においては、ゲイレズビアンバイセクシュアルトランスジェンダートランスヴェスタイトトランスセクシュアルドラァグ・クイーンなど、英語で一般に「LGBTQ」と総称される性的少数者のグループを、一括して「LGBTQ当事者ら」と表現する。

背景

ソドミー法

1969年当時アメリカ合衆国に住むLGBTQ当事者らが置かれていた状況は、今日ほど自由な私的生活環境を享受することが出来なかった。民事刑事両面において、法は彼らにとって苛酷であった。例えば、性的指向を理由とする解雇は違法とされていなかった[2]。また、イリノイ州[注釈 1]を除く全州が、同性間性交渉を禁止する法律(通称:ソドミー法)を依然として維持していた。そのため、成人間の同意に基づいていようとも、性交渉を持ったことが明らかになったLGBTQ当事者らは、罰金刑や自由刑を科せられていたのである。

このような抑圧的な社会的状況はニューヨーク州とて例外ではなかった[注釈 2]が、大都市であるニューヨーク市は、田舎に比べれば幾分か自由の息吹を感じられる街であったため、全国から移住してきたLGBTQ当事者ら[注釈 3]によって、グリニッジ・ヴィレッジの一角、クリストファー・ストリート七番街アベニューの交差点を中心とした半径数ブロック(地図で確認[6])にLGBTQ当事者らのコミュニティが形成されていた。そこには1950年代に既に、現存する市内最古のゲイバー「ジュリアス」を始めとして、数軒のゲイバーが存在していた。

しかし、そのようなゲイバーにあっても、LGBTQ当事者らのナイトライフには不安が付き纏っていた。1960年代まで、ゲイバーが警察による踏み込みを定期的に受けることは日常的な光景であったからである。もっとも、1960年代になると、予告なしの踏み込みは徐々に減り始めた。これは相次ぐ訴訟と差別撤廃運動(ホモファイル運動英語版)の成果であった。それでもなお、1965年になるまで、警察は、時として捜索時に居合わせた者全員の個人情報を記録し、新聞で発表することもあった。キス異性装、さらに手を握っていたことや、バーに居合わせただけですら、拘束の理由とされた。私服警察官がゲイに成りすましてゲイに近づき、法令違反行為を助長するような手法、即ち囮捜査が行われていた。

1965年以降の変化

1965年、ニューヨークのLGBTQ当事者らを取り巻く環境が変わる。この年は、ストーンウォール暴動発生の遠因と考えられる二人の人物が、表舞台に立った年である。改革を訴えて市長に当選した共和党リベラル派のジョン・リンゼイと、ホモファイル運動団体マタシン協会の会長となったディック・ライチ英語版である。

リンゼイは前市長に比べ、LGBTQ当事者らに対して寛容であった。彼はマタシン協会の要望に耳を傾け、市の一般職員採用面接で求職者に性的指向を質問する行為を止める等、LGBTQ当事者らに有利な改革を幾つか実行した。

ライチは、それまでのマタシン協会会長と比較して急進的な活動家であり、1960年代他の公民権主張団体が用いていたような直接行動を信念としていた。1966年初頭、リンゼイが市民の苦情を受け付ける公聴会を開いたとき、マタシン協会は上述の囮捜査を止めるよう抗議した。これを受けて、警察本部長は、LGBTQ当事者らを誘惑して法令違反行為を唆さないように警察官を指導し、私服警察官がLGBTQ当事者らを猥褻等で逮捕するときには民間人の証人を必要とするという方針を定めた[7][注釈 4]

同じく1966年、ライチは酒類販売免許の与奪方針をめぐって、州の酒類局に挑戦した。当時、酒類局は、三人以上の同性愛者グループにアルコール飲料を提供した店から恣意的に免許を取り上げていた。そのため、多くのゲイバーが違法営業を余儀なくされ、警察の踏み込みを許す一因となっていた。ライチは、他二人の男性同性愛者と一緒に、酒類販売免許を持っていた数少ないゲイバーの一つ「ジュリアス」[注釈 5]で、ジャーナリストらと会合を持ち、バーテンダーに自身たちの同性愛を明言した上でアルコール飲料を注文した。バーテンダーがこれを断ると、ライチは市の人権委員会に苦情を申し入れた。これを受けて、酒類局長は、今後、同性愛者へアルコール飲料を提供した店から酒類販売免許を取り上げないよう、方針を変更したことを発表した[9][注釈 6]。これを契機に1966年以降、グリニッジ・ヴィレッジにはゲイバーが着実に増え始めていた[10]

ゲイバーが合法的な営業を認められ増加しつつあった中で、ストーンウォール・インが踏み込まれた理由について、歴史家ジョン・デミリオ英語版は、ニューヨークが市長選の年であったことを指摘している。再選を狙うリンゼイ市長は、共和党の予備選挙での敗北が必至だったため、独立政党からの出馬を決めていた。したがって、彼は市内のバーの浄化を訴えて支持を広げる必要性に迫られていたのである。そして、ストーンウォール・インにはその標的となり得るに十分な要因がいくつもあった。

まずこの店はまだ酒類販売免許を取得していなかった[注釈 7]。またそうした店の多くがそうだったように、犯罪組織「ガンビーノファミリー」との“しがらみ”があった[2]。また、全裸に近いゴーゴーダンサーがパフォーマンスをしていたことや、未成年者が出入りしていたことなども問題視された[注釈 8]

このように、ニューヨークのゲイ・シーンは、徐々に進む差別撤廃を歓迎しながら、LGBTQ当事者らの権利獲得が進んだ海外事情[注釈 9]を受けてさらなる解放を望む声がLGBTQ当事者らの内から上がる一方、風紀取り締まりを強化する市当局との緊張が高まる中で、1969年6月27日金曜日の夜を迎えるのである。

暴動

初日

1969年6月28日午前1時20分を少し回った頃、ニューヨーク市警第一分署に所属する8名の警察官が令状を手に、ストーンウォール・インを訪れた。こうして、その週2回目のストーンウォール・インに対する踏み込みが始まった[13]。警察発表によると、その時店内にいた客は200人を超えていたが、逮捕されるのは、身分証明書を持たない者、異性装をしていた者、そして従業員の全員あるいは一部のみとされていたので、ほとんどの客は逮捕を免れることができた[14]

警察は無免許酒類販売の現行犯で店員たちを逮捕すると、警察署に連行するため、護送車に乗せようと店の外に出た。そのとき店の周囲には、群集が店を取り囲むように見守っていた。これは、ゲイバーが踏み込みされる度に見られる日常的な光景であった。それまでずっと、LGBTQ当事者らは警察官にどのような侮辱的な言動を投げかけられても面従腹背を貫き、警察官が容疑者を連行して去っていくのを見守るだけであった。

しかし、その夜は前例にないことが起きた。LGBTQ当事者らは警察官に悪態をつきながら、硬貨[注釈 10]や瓶を投げ始めたのである[15]。そのうち、石、屑篭、煉瓦、ガラス板が飛び始め、一人の警察官のこめかみをビール瓶の強打が襲った[12]。ひるんだ警察官たちは店内に退避した。近くの警察署から援軍が到着するまで、警察官はストーンウォール・イン店内から、今にも破られそうなドアを押さえるので精一杯であった。

暴徒と化したLGBTQ当事者らの攻撃は容赦なかった。店内を照らすために火をつけようとする者や、パーキングメーターを引き抜いてドアの隙間から振り回し、警察官を店の外に出そうとする者[15]もいた。時折開くドアの隙間からは、火炎瓶や煉瓦が投げ込まれた[15]。暴動が起きていることはすぐに広まり、駆けつけた住民や他のゲイバーの客らで現場は騒然となった。

ようやく警察に応援が到着し、初日の暴動は発生から45分程で終息した。騒動が収まった時、ストーンウォール・インはサイクロンが直撃したかのような惨状であったと表現されている[12]。その夜のうちに13名の逮捕者[注釈 11]と、4名の警察官を含む多数の負傷者が出た[17]。負傷者のうち少なくとも2名は重傷であった[18]マーシャ・P・ジョンソンを含め、2000人を超える[9][注釈 12]と見られるLGBTQ当事者らが400人の警察官と戦ったのである。

この踏み込みは、それまでストーンウォール・インに対して行われていたものと、いくつもの点で異なっていた。それまでの踏み込みでは、一般的に第六分署がストーンウォール・インの経営者に内報した後で、家宅捜査に入っていた。加えて、通常、踏み込みは早い時間に行われ、書き入れ時の時間帯には店は通常の営業に戻れた。しかし、この夜の踏み込みは、第一分署が主体となり、いつもより遅い書き入れ時に行われている。

また、この捜索中、警察官はハンマーで店のレジを壊している。この行為について、後日、居合わせた客の一人は警察官が金を盗んだと新聞記者に証言したが、警察は店とマフィアとの繋がりを裏付ける証拠を押収するために行ったと反論した[12]

二日目以降

6月28日午後、クリストファー・ストリートには、差別撤廃と解放を訴えるスローガンを掲げたLGBTQ当事者らが押し寄せた。あまりの混雑に、車の通行は一時完全に遮断されたという[19]。その夜から29日未明にも衝突が起きたが、前夜ほど大きなものではなかった。6月29日の夜は、クリストファー・ストリートに静けさが戻ってきた。しかし、6月30日7月1日の夜、再び人々が集まり始め、警察との間で小競り合いが起きた。どれも比較的小さな衝突であった。ドラァグ・クイーンが警察官の足元に爆竹を投げ跳び上がらせたり、ゲイが警察官の侮蔑的な猥褻表現を逆にからかったりと、喜劇的な様相を呈していた[8]

しかし、7月2日の夜、クリストファー・ストリートに血生臭さが戻ってくる。約1000人の若者が、ベトナム戦争反対運動鎮圧のために徹底的に訓練された特殊警察部隊と対峙した。今度は警察が優勢であった。後にライチはこの日の光景を、顔や手から血を流す若者が、七番街のクリストファー・ストリート交差点から西10丁目交差点までの方々にうずくまっていたと記している[8]。このようにして、現代史上初にして最大級のLGBTQ当事者らによる暴動は沈静化した。ストーンウォール・インは7月3日から営業を再開した。

謎と逸話

なぜ1969年6月27日から28日にかけての夜、ストーンウォール・インの客は、いつものように従順でなかったのか。何が暴動の引き金となったのか。これらの疑問に対してはいくつかの説明がなされているが、意見が分かれたままである。この暴動は特に初期の段階において客観的な報道資料に乏しく、後世の検証者は当事者と目撃者の証言に大きく頼らざるを得ないが、当事者の間ですら証言は一致を見ない。

客観的資料の乏しさを、同性愛活動家たちは、当初この事件が過小評価されていたことを物語っていると考えている。黒人解放運動やベトナム戦争反対運動が頻発し、過激な暴動が珍しくなかった当時の情勢に加えて、同性愛差別問題は人種差別問題や女性差別問題ほどには、政治的および社会的な重要性を見出されていなかったのである。事実、直後に発行された主要新聞は、この事件を小さく報じたのみであった。7月6日ようやくニューヨーク・デイリーニューズが「ホモの巣が襲われ、女王蜂が針で反撃」というタイトルの1500字程度の記事で比較的大きく紙面を割いた程度である。タイムがこの事件を取り上げたのは、4ヶ月後のことであった[20]

現場近くに本拠を構え、LGBTQ当事者らの文化とコミュニティに関心が深かったヴィレッジ・ヴォイス紙は、この事件を当初から大きく伝えた[注釈 13]。暴動発生直後、現場に到着し、一時警察官たちとともに店内にいたハワード・スミス記者による記事が、初日の暴動を伝える貴重な資料の一つとなっている。彼は怒り狂った警察官が店内の煙草自販機やジュークボックスを壊したことを記事に認めたが、後日この破壊行為の容疑で裁判にかけられた警察官は無罪を言い渡された[8]

事件にまつわる伝説

このように謎が多い事件であるが故に、事件に関する数々の伝説的な逸話が生まれ、真偽はともかく今日まで伝えられている。

初めに、この夜の客がいつものような忍耐を拒否した理由として、女優ジュディ・ガーランドの死がLGBTQ当事者らの団結心と反抗心を高めたからであるという説明がなされる。ジュディ・ガーランドは同性愛に理解を示していた数少ない著名人の一人であり、LGBTQ当事者らの間で人気が高かった[注釈 14]。彼女は6月22日急逝し、その葬儀が6月27日ストーンウォール・イン近くの教会で行われた。踏み込み時の店内は、葬式に参列した者を中心にガーランドの話題で感傷的な雰囲気が形成されていたという。そして、そこに踏み込んできた警察官の無神経で侮辱的な言動に、彼らの堪忍袋の緒が切れてしまったというのである。この逸話は、LGBTQ当事者らの間に広く伝わり信じられている。

次に、暴動の引き金となった行為について、代表的な説の一つによれば、シルビア・リベラ英語版という名のトランスジェンダー女性が、警察官に警棒で突かれたことに立腹し、を投げつけたという[21]。別の説によれば、パトカーに乗せられようとしたレズビアンが暴れて、店の前にいた群集に同様の行為を唆したという[22]。これら二つの逸話は、最初に暴動を仕掛けた人物が外見上女性であったという点、および最初に警察官に投げられた物が瓶であるという点に、共通点が見られる。

加えて、最初に警察官に投げつけられた物がヘアピンであったという神話的な逸話も流布しており、ライチをして「ヘアピンが落ちる音[注釈 15]が世界中に響き渡った」と言わしめた[23]。これはストーンウォールの反乱がもたらした社会的影響の大きさを象徴的に表現した名文句として、しばしば引用される。

警察官の証言

長い間、ストーンウォールの反乱は、主にLGBTQ当事者らの立場から語られ、もう一方の当事者である警察の立場から語られることは稀であった。しかし、後年、事件当時現場にいた警察官が、この事件について語り始める。その内容はこれまで定説とされてきたものと異なっていた。

まず、先述の通り、ストーンウォール・インに対する踏み込みは、市長が人気回復を狙って行った違法バー掃討作戦の一つであったとする見方が、今日においても支配的である。しかし、その踏み込みの現場責任者であったシーモア・パイン警視はこれに異を唱え、ある刑事事件の被害拡大を食い止めるためにストーンウォール・インの閉鎖を命じられて踏み込みに踏み切ったと話した。ある刑事事件とは、当時多発していた、ウォール・ストリート仲買業者を狙った盗難事件である。警察はその事件の背後に、個人情報を握られ犯罪組織に協力を強要されているゲイの証券会社社員がいると見ていた。そこで、犯罪組織がウォール・ストリートで働くゲイに関する情報を集める中心的場所と考えられていたストーンウォール・インを閉鎖することで、さらなる盗難事件の発生を未然に防ごうと試みたというのである[24]

また、先に述べたように、暴動のきっかけを作った人物は、女性かトランスジェンダーであったと伝えられている。しかし、当時第六分署に所属していたフランク・トスカーノ巡査は、男性が暴動の引き金を引いたと語る。トスカーノによると、彼と同僚1名はその夜、緊急通報でストーンウォール・インに呼び出された。そして、通報が悪戯だと判明[注釈 16]し、トスカーノたちが店を出ようとしたとき、パイン率いる刑事8名が踏み込みに着手した。そのため、トスカーノたちもその踏み込みに携わることになった。しばらくして、一人のラテン系の男性客が刑事の一人を同性愛者呼ばわりし、それに逆上した刑事が彼を殴ったのである。すると、殴られた男性客は店を飛び出し、警察官が自分達を殺そうとしていると叫び吹聴し回った。それに刺激された群集が、警察官に物を投げ始めたという[25]

トスカーノは、また、第六分署の制服警察官とLGBTQ当事者らは、事件の前後も良好な関係を築いていたと語った。ゲイバー踏み込みの折にはゲイからダンスに誘われることもあった。そのようなとき警察官はダンスに応じたり冗談を言ったりして、LGBTQ当事者らを和ませていたと述べている。トスカーノはこのような自分自身の体験に基づいて、ストーンウォール事件を描く寸劇台本を書いた。それは2004年6月、ストーンウォール35周年記念イベントの一つとしてビレッジの小劇場で上演された[26]

なお、警察官が閉じこもった店に揮発性の液体が撒かれ火が放たれた[注釈 17]とされている[15]が、トスカーノはこれを否定している[25]

影響

ストーンウォールの反乱はLGBTQ当事者らの権利獲得運動に変化と加速を齎す転換点となった。運動主体となる団体の主流が穏健派から急進派へ変わり、1960年代穏健派の働きで緩やかに進行してきた差別撤廃の動きが1970年代加速したのである。

反乱の前、LGBTQ当事者らの権利運動は、穏健で同化主義的なホモファイル運動が主流であった。マタシン協会に代表されるホモファイル団体は、いかに彼らが異性愛者と同質であり平等であるかを主張し、異性愛社会の共感を得ながら、ソドミー法に代表される差別的な制度の撤廃を目指した。それに対し、ストーンウォールの反乱以後は、異性愛者との差異を認めながら、アフリカ系アメリカ人等の社会的マイノリティと連帯して権利獲得を目指す同性愛解放運動が主流になる。

時代の変化の中で、マタシン協会は、解放運動の指導者たちから、その同化主義的な運動方針が、LGBTQ当事者らのアイデンティティを否定し異性愛者社会に迎合するものであると批判されるようになり、急速に支持を失っていった。解放運動の指導者の一人ジョン・マーフィーにとっては、ライチによるゲイバーのアルコール飲料提供の合法化実現すら、ゲイバーという名のゲットーを恒久化させ、同性愛者が異性愛者の世界に立ち向かう機会を妨げる行為として、非難すべき対象であった。マタシン協会はその後も細々と活動を続けたが、1987年1月に破産し解散する。

1969年7月、反乱から一月も経たない中に、ニューヨークで同性愛解放団体「ゲイ解放戦線」が組織された。これは左翼的なイデオロギーを主張する急進的な団体であった。同様の団体は、国内主要都市に次々と作られ、1969年末までに主要な大学にゲイ解放戦線の支部が作られた。1970年には過度の政治化を嫌うLGBTQ当事者らがゲイ解放戦線を離れ、共産主義的な主張を排除した解放団体「ゲイ活動家同盟」を創設する。この動きは海外にまで波及し、西側先進国に同様の解放運動が広まった。1970年にはロンドンでもゲイ解放戦線が組織され、翌年デモ行進が行われた。

このような解放運動の成果により、1970年代、合衆国のLGBTQ当事者らの境遇は飛躍的に向上する。1971年コネティカット州がソドミー法を撤廃したのを皮切りに、いくつかの州議会や州裁判所でソドミー法が撤廃または緩和される決定がなされた[3]1972年にはミシガン州アナーバー市が同性愛者の人権保護を条例化する。著名人たちが同性愛的性的指向を公表し始めたのも、この頃であった。1973年末までに全国で1100の同性愛団体が設立された[20]

急進的な解放運動は、急進主義が弱まる1970年代半ば以降の社会環境の中で、徐々に急進性を失っていった。それ以来、穏健的な同性愛権利運動(ゲイライツ運動)が主流となる。同性愛権利運動の活動家たちは、商業主義エンターテイメントを取り入れたキャンペーンを実施するようになり、2000年代に至る。

記念行事

ゲイ・パレードを歩く警察官と恋人

ストーンウォールの反乱以来、LGBTQ当事者らにとって、6月は記念すべき月であり、6月27、28日または6月最終週末は記念すべき日として記憶されている。

1970年6月最終日曜日、反乱一周年を記念して、ゲイ解放戦線の企画で5000人以上の男女がグリニッジ・ヴィレッジからセントラル・パークまで行進した。これがニューヨーク最初のLGBTプライドパレードであり、以降毎年6月最終日曜日に同様のパレードが実施されている。ストーンウォールの反乱の折はLGBTQ当事者らと敵対した市当局と警察も、今日のパレードには協力的である。1990年代以降のパレードでは、市長の行進とLGBTQ当事者らの警察官たちで構成される団体の参加が恒例となっている。ニューヨークの他、シカゴヒューストンサンフランシスコシアトルミネアポリスコロンバストロント等、北米の主要都市で、ストーンウォールの反乱を記念して、6月の最終日曜日にプライドパレードが実施される。

ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルのライトアップは、さまざまな記念日にちなんで年中色が変わるが、毎年6月最終週にはラベンダー・ピンク色にライトアップされる。これはこの週がストーンウォールの反乱を記念した同市の「LGBTプライド週間」だからである。また、カナダ2005年同性結婚を、アイスランド2006年に同性間パートナーシップを、それぞれ法制化したが、どちらも6月28日に合わせて可決された。

現在のストーンウォール・イン

ストーンウォール・インは、LGBTQ当事者らにとって自由と誇りの象徴となった。その名はLGBTQ当事者らにより様々な名称に用いられている。著名な英国の同性愛権利団体「ストーンウォール」もその一つである。また、世界各地のゲイバーが「ストーンウォール」の名を取り入れている。同名のボトル入り水も販売されている。

ニューヨークのゲイ・シーンの中心は、グリニッジ・ヴィレッジからチェルシー地区へ、そしてヘルスキッチン地区へと北上しつつある。その流れの中で、クリストファー・ストリートは寂れつつあるものの、今日でもゲイ・タウンとして世界的に知られている。事件の舞台となったストーンウォール・インは、今もクリストファー・ストリート53番地に残されている。

1999年、ストーンウォール・インは歴史登録財英語版に登録され、これが面するクリストファー・ストリートの七番街アヴェニューとウェイバリー・ストリートの間が特に「ストーンウォール・プレイス (Stonewall Place)」と改名された (地図で確認)。毎年パレードの日になると、店の前はそこで起きた歴史的事件を祝うLGBTQ当事者らで溢れる。2006年現在のオーナーであるドミニク・デシモーネは、七番街でレストラン「ストーンウォール・ビストロ」を経営している。

2016年6月24日、ストーンウォール・インとその周辺が米国初となるLGBTナショナル・モニュメント(国定文化遺産保護地域)に指定されアメリカ合衆国国立公園局などが管理し保全していくことと、国立公園局にLGBTの米国人の逸話を伝える部署が創設されることをホワイトハウスが発表した[27][28]

事件発生50周年を目前に控えた2019年6月7日、ニューヨーク市警のジェームズ・オニール署長は当時行われた取締りは誤りであったことを認め謝罪した[29]

著名な参加者

劇化

脚注

注釈

出典

参考文献

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外部リンク