スティーブ・フランシス

アメリカのバスケットボール選手 (1977-)

スティーヴン・ディショーン・フランシスSteven D'Shawn Francis, 1977年2月21日 - )は、アメリカ合衆国メリーランド州タコマパーク出身の元バスケットボール選手。ニックネームは「ウインク」、「スティービー・ザ・フランチャイズ」(Stevie The Franchise)。

スティーブ・フランシス
Steve Francis
引退
ポジションPG/SG
基本情報
愛称Stevie The Franchise
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1977-02-21) 1977年2月21日(47歳)
出身地メリーランド州の旗 メリーランド州タコマパーク
身長(現役時)191cm (6 ft 3 in)
体重(現役時)91kg (201 lb)
キャリア情報
出身メリーランド大学
ドラフト1999年 2位
選手経歴
1999-2004
2004-2006
2006-2007
2007-2009
2010
ヒューストン・ロケッツ
オーランド・マジック
ニューヨーク・ニックス
ヒューストン・ロケッツ
中華人民共和国の旗 北京ダックス
受賞歴
Stats Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

経歴

サンジャシント、アレガニーのジュニアカレッジで2年間プレイした後、NCAAディビジョンIのメリーランド大学へ転校、抜群の運動能力と高いバスケットボールスキルから、しばしばアレン・アイバーソンと比較され、注目を集めた。その後、NBAにアーリーエントリー。1999年のNBAドラフトで、バンクーバー・グリズリーズ(現メンフィス・グリズリーズ)から全体での2位指名を受けるも、カナダの事は全然知らないという理由で入団を拒否[2][3]。マイケル・ディッカーソン、オセラ・ハリントンらとの交換でヒューストン・ロケッツに放出された[4]

ルーキーイヤーから恵まれた身体能力を生かし得点を量産。1試合平均18.0得点6.3アシストを記録し、エルトン・ブランドと共にルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を受賞する。

その後4シーズンロケッツに在籍。チームのトップスコアラーとして君臨、ファンからも絶大な人気を誇ったが、02-03シーズン、2002年のNBAドラフトで1位指名権を得たロケッツは、中国の長身選手姚明を獲得。低迷するチーム事情からロケッツのフロントはヤオ中心のチーム作りをはじめる。フランシスはこの方針に納得がいかず、03-04シーズン終了後、オーランド・マジックに放出された。

03-04シーズンは、キャリア最低の数字に終わったが、マジックでは再び活躍。グラント・ヒルドワイト・ハワードらとプレーオフ進出を賭けて戦うが、あと一歩及ばなかった。05-06シーズンはチームは低迷、フランシスもチームから出場停止処分を受けるなど不本意なシーズンを送った。

05-06シーズン途中、NBAを揺るがすビッグニュースと共にニューヨーク・ニックスへ移籍[5]。このとき、ニックスはチーム史上最悪と形容してよいほどの衰退を見せていた。フランシスはチームの起爆剤となるか注目されたが、エースステフォン・マーブリーとポジションが重複、名将ラリー・ブラウンも効果的なローテーションを見つけることができず、ニックスはディビジョン最下位でシーズンを終えた。フランシスの数字も移籍後は急降下した。このシーズン、ニックスでは24試合に出場したが、先発出場は15試合のみに終わり、マーブリーとは反目する日々が続く。

06-07シーズンも調子は上がらずトレードの噂も流れたが、結局シーズン終了まで残留した。2007年6月28日NBAドラフト当日のトレードによりポートランド・トレイルブレイザーズに放出され、更にチームの構想から外れ、7月11日契約解除で解雇された。

07-08シーズンは、古巣ヒューストン・ロケッツに復帰するが出場時間を与えてもらえず、膝の故障が悪化し、シーズン絶望となった[6]

08-09シーズン途中、ドラフト2巡目指名権との交換でメンフィス・グリズリーズに放出され[7]、間もなく解雇[8]。その後所属チームを見つけることが出来ず、引退となった。

NBA個人成績

略称説明
  GP出場試合数  GS 先発出場試合数 MPG 平均出場時間
 FG% フィールドゴール成功率 3P% スリーポイント成功率 FT% フリースロー成功率
 RPG 平均リバウンド APG 平均アシスト SPG 平均スティール
 BPG 平均ブロック PPG 平均得点 太字 キャリアハイ

レギュラーシーズン

シーズンチームGPGSMPGFG%3P%FT%RPGAPGSPGBPGPPG
1999–2000ヒューストン・ロケッツ777736.1.445.345.7865.36.61.5.418.0
2000–01ヒューストン・ロケッツ807939.9.451.396.8176.96.51.8.419.9
2001–02ヒューストン・ロケッツ575641.1.417.324.7737.06.41.2.421.6
2002–03ヒューストン・ロケッツ818141.0.435.354.8006.26.21.7.521.0
2003–04ヒューストン・ロケッツ797940.4.403.292.7755.56.21.8.416.6
2004–05オーランド・マジック787838.2.423.299.8235.87.01.4.421.3
2005–06オーランド・マジック464537.7.433.257.7974.85.71.1.216.2
2005–06ニューヨーク・ニックス241527.5.442.538.7613.03.51.0.310.8
2006–07ニューヨーク・ニックス443028.1.408.378.8293.63.9.9.311.3
2007–08ヒューストン・ロケッツ10319.9.333.235.5652.33.0.9.55.5
Career57654337.6.429.341.7975.66.01.5.418.1
All-Star3324.3.552.500.5002.75.3.7.012.0

プレーオフ

シーズンチームGPGSMPGFG%3P%FT%RPGAPGSPGBPGPPG
2004ヒューストン・ロケッツ5544.4.429.412.7258.47.61.4.219.2
Career5544.4.429.412.7258.47.61.4.219.2

プレイスタイル

高い身体能力と巧みなボールハンドリングで、ストリートバスケでなドリブルを見せる。特に、クロスオーバーと呼ばれる左右に大きくるドリブルは彼の代名詞のひとつである。またスピードを活かしてペネトレイトし、鮮やかなダンクをすることも出来る。しかし、ドリブルを始めるとそこからシュートまで行くという選択肢しかなくなるため、基本的にパスが少なくなる。

その他

  • バンクーバーでのデビュー戦、チームメイトのフリースロー中に、客席からフランシスに向かってトマトが投げ入れられる事件が発生。しかしフランシスは動じず、4クォーター終盤に同点となるジャンプシュートを決めると、延長戦でも活躍しチームを勝利に導いた。
  • フリースローを打つ前のルーティンとして、必ず右腕にある亡くなった母親の刺青を触る。
  • 晩年、原因不明の偏頭痛に悩まされ、欠場する機会が増えていた。
  • ステフォン・マーブリーとは仲が悪く、ニックス時代は意見が合わず、ロッカールームで度々取っ組み合いの喧嘩を繰り広げていた。
  • 07-08シーズン開幕戦、古巣に復帰しファンからも期待されていたがスターターに入れず観客からは「フランシス」コールが出るも、結局出場することは無かった。

脚注

外部リンク