ジョフロワ (ウー伯)

ジョフロワ・ド・ブリオンヌフランス語:Geoffroi de Brionne, 10世紀半ば - 1015年)は、ウー伯およびブリオンヌ伯[注釈 1](在位:996年 - 1015年)。

ジョフロワ・ド・ブリオンヌ
Geoffroi de Brionne
ウー伯
ブリオンヌ伯
在位996年 - 1015年

出生10世紀半ば
ノルマンディー公国、ブリオンヌ
死去1015年
ノルマンディー公国、ブリオンヌ
子女ジルベール
家名ノルマンディー家/クレア家
父親ノルマンディー公リシャール1世
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生涯

ジョフロワはノルマンディー公リシャール1世[1]と名前不明の愛妾との間の庶子である[注釈 2][6]。ウー伯領は、異母兄リシャール2世が弟たちにも名誉と称号を与えるという方針のもと、996年にジョフロワのために創設されたアパナージュであった[6]。ウーの要塞はノルマンディー防衛にきわめて重要な役割を果たした[7]。ウーの城と城壁はブレル川沿いに建てられ、イギリス海峡からちょうど2マイルの距離にあった。それは長い間イギリスの乗船地点となっており、戦時にはしばしば最初に攻撃された場所の1つであった[7]

ブリオンヌの城は歴代ノルマンディー公の居城の一つであったためにノルマンディー公が保持していたが、リシャール2世はブリオンヌの城も異母弟のジョフロワに与えた[注釈 3]。ジョフロワはこの城を生涯領有し息子ジルベールに継承させ、ジルベールが暗殺させた後に再びノルマンディー公のもとに戻された[8]

ジョフロワと息子ジルベールはどちらも、リシャール2世によって与えられたリジューの特許状で伯爵とされていたが、その称号は領土とは結び付けられていなかった[9]。ジョフロワは1015年ごろに死去した[10]

子女

ジョフロワの妻の名は不明である。1男をもうけた。

ジョフロワの死後、息子ジルベールがウー伯位およびブリオンヌ伯位を継承した。

注釈

脚注

参考文献

  • J.H. Round, The Family of Clare, The Archaeological Journal, Vol. LVI, Second Series Vol. VI, (1899)
  • Philip Lyndon Reynolds, Marriage in the Western Church: The Christianization of Marriage During the Patristic and Early Medieval Periods (Boston: Brill, 2001)
  • David Crouch, The Normans: The History of a Dynasty (London: Hambledon Continuum, 2007)
  • Frank Stenton, Anglo-Saxon England (Oxford: Oxford University Press, 1971)
  • Edmund Chester Waters, The Counts of Eu, Sometime Lords of the Honour of Tickhill, The Yorkshire Archaeological and Topographical Journal, No. 9 (1886)
  • The Gesta Normannorum Ducum of William of Jumieges, Orderic Vitalis, and Robert of Torigni, Vol. II, Ed. & Trans. Elizabeth M.C. Van Houts (Clarendon Press, Oxford, 1995)
  • David Douglas, The Earliest Norman Counts, The English Historical Review, Vol. 61, No. 240 (May, 1946)
  • Edmund Chester Waters, The Counts of Eu, Sometime Lords of the Honour of Tickhill, The Yorkshire Archaeological and Topographical Journal, No. 9 (1886)
先代
ウー伯
996年 - 1015年
次代
ジルベール