ジョセフ・ヘンリー・シャープ

アメリカ合衆国の画家 (1859-1953)

ジョセフ・ヘンリー・シャープ(Joseph Henry Sharp、1859年9月27日 - 1953年8月29日)は、アメリカ合衆国の画家である。20世紀初めに多くの芸術家が集まった、合衆国南西部、ニューメキシコ州、タオスの芸術家コミューンの一員となり[1]、ネイティブ・アメリカンの肖像画やその生活を描いたことで知られている。

ジョセフ・ヘンリー・シャープ
Joseph Henry Sharp
1910年ころのシャープ
誕生日 (1859-09-27) 1859年9月27日
出生地アメリカ合衆国、ブリッジポート(Bridgeport)
死没年1953年8月29日(1953-08-29)(93歳没)
死没地アメリカ合衆国、アルバカーキ
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略歴

オハイオ州ベルモント郡のブリッジポート(Bridgeport)でアイルランド移民の両親のもとに生まれた。父親は商売人であった。子供時代に溺れかけ、あやうく蘇生することができたが聴力を失うことになり、読唇術を学び、筆談板を持ち歩かなければならなかった[1]。父親は12歳の時亡くなり、釘工場で働き始め家計を助けた。14歳で学校を止め、シンシナティの叔母の家に住み、シンシナティで働きながらシンシナティ美術学校(Art Academy of Cincinnati)で学んだ[1][2]

1881年にヨーロッパに渡り、アントウェルペン王立芸術学院で1年ほど学んだ。帰国後、ニューメキシコやアリゾナ、カルフォルニアなどアメリカ西部を旅した。1885年にシンシナティの画家仲間のジョン・ハウザー(John Hauser: 1859–1913)と2度目のヨーロッパでの修行をし[3] 、パリのアカデミー・ジュリアンで学んだ。シンシナティで指導的な画家であったフランク・ドゥフェネク(1848-1919)からも影響を受けた[2]

1890年にジョン・ハウザーとシャープを含む13人の芸術家がシンシナティ・アート・クラブ(Cincinnati Art Club)の創立会員になった[4]。最初の結婚をしシンシナティ美術学校で教え始めた[2]。1893年にジョン・ハウザーとアメリカ西部への2度目の旅をした[5] 。雑誌「Harper's Weekly」からタオス・プエブロのネイティブ・アメリカンの生活を描いた挿絵の注文を受けていたので、ニューメキシコ州、タオスを初めて訪れた[5] 。シャープはタオスのすばらしさをアカデミー・ジュリアンでともに学んだアーネスト・ブルーメンシャイン(Ernest Leonard Blumenschein: 1874–1960)やバート・フィリップス(Bert Geer Phillips: 1868–1956)に伝えた。1909年にタオスの古い礼拝堂を購入してスタジオにし、1913年からは家族でタオスに住んだ。ブルーメンシャインらもタオスを訪れるようになり、彼らやイアンガー・アーヴィング・カウス(1866-1936)と1915年にタオス芸術家協会(Taos Society of Artists)の創設メンバーとなり、この協会は1927年まで存続した。1814年に最初の妻が亡くなった。

1930年から8年間ほど、2番目の妻と冬をハワイで過ごし、ハワイで描いた絵をハワイの美術館で展示するようになった[1] 。93歳になった1953年までタオスのスタジオで働いた後、カルフォルニアに移り、翌年カルフォルニアのパサデナで亡くなった[1]

作品

脚注

参考文献

  • Forrest Fenn: The Beat of the Drum and the Whoop of the Dance: A Study of the Life and Work of Joseph Henry Sharp. Fenn Publishing Co., Santa Fe 1983.
  • Forrest Fenn: Teepee Smoke: A New Look into the Life and Works of Joseph Henry Sharp. Pt. 5. In: Western Art Collector. February 2008, Medicine Man Gallery. Mit einem Foto des Innenraums seines Studios in Taos.
  • Thomas E. Minckler: In Poetic Silence, The Floral Paintings of Joseph Henry Sharp. Settlers West Galleries, Tucson, Arizona 2010.