ルイスの成功は約10年続き、ザ・ビッグ・ボッパーの『Chantilly Lace 』や『Rockin' My Life Away 』のカヴァーなどを含む過去のロックの曲もヒットした。21世紀に入り、ルイスはコンサート・ツアーで世界をまわり、新しいアルバムも発表している。2006年のアルバム『Last Man Standing 』は世界中で100万枚以上を売り上げ、彼のアルバム売り上げ記録を更新した。2010年のアルバム『Mean Old Man 』はルイスのアルバムの中でも高い売り上げの1つとなった。
母親は彼をテキサス州ワクサハチーにある神学校Southwestern Assemblies of God University に入学させ、聖歌隊でしか歌えなくなった。しかし『My God Is Real 』をブギウギ調で大胆に演奏した。生徒会長であったピアリー・グリーンは、彼がタレント・ショーで「世俗的な」音楽を演奏したと語った。翌朝学部長はジェリー・リー・ルイスとグリーンを呼び出し、彼らを退学させた。ルイスは「(グリーンは)俺が何を演奏するか知らなかった」ため退学させられるべきではなかったと語った。
1956年11月、サン・レコードのオーディションを受けるためにテネシー州メンフィスに向かった。サン・レコードのオーナーのサム・フィリップスはフロリダ州にいたため会えなかったが、プロデューサー兼エンジニアのジャック・クレメントがルイスが歌うレイ・プライスの『Crazy Arms 』とルイス作の『End of The Road 』をレコーディングした。同年12月、サン・レコード所属のカール・パーキンスやジョニー・キャッシュと同様、ソロとしてだけでなくスタジオ・ミュージシャンとしても多くのレコーディングに参加した。1956年終盤から1957年初頭まで、パーキンスの『マッチボックス』、『Your True Love 』、『You Can Do No Wrong 』、『Put Your Cat Clothes On 』、ビリー・リー・ライリーの『Flyin' Saucers Rock'n'Roll 』などサン・レコード出版のレコードで彼の独特のピアノを聴くことができる。それまではロカビリーでピアノを前面に出すことはなかったが、彼の影響で他のレコード会社もロカビリーにピアノ奏者を取り入れるようになった。
演奏中、ピアノの椅子を蹴ったり、立ったままピアノを弾いたり、叩くように劇的なアクセントをつけて弾いたり、鍵盤の上に座ったり、楽器の上に立ったりした。ラジオ・ドキュメンタリー『Pop Chronicles 』でルイスは、椅子を蹴ったのは最初は偶然だったが、反応が良かったため続けたと語った[9]。1957年7月28日、『The Steve Allen Show 』でテレビ初登場し、『Whole Lotta Shakin' Goin' On 』を演奏中に上記のアクションを行なった[13][14]。ライヴの最後にピアノに火をつけたと世間には認知されているが、これについてルイスは『エスクァイア』オンライン版で「俺はピアノに火をつけた事はないよ。ずっと否定したかったんだけどさ」と語った。
ルイスがアメリカに戻ってもスキャンダルは打ち消せず、ラジオ局のブラックリストに載った。ルイスはこれまで自分をサポートしてくれた多くの人々に裏切られたように感じていた。ディック・クラークは番組から彼を降板させた。サン・レコード社長がジャック・クレメントとの偽のインタビュー『The Return of Jerry Lee 』を発表し、婚姻問題、批判を軽視した「答え」としてルイスの曲の一部を引用したためルイスはサム・フィリップスにも裏切られたと感じていた。唯一ディスクジョッキーのアラン・フリードだけがルイスの味方のままであり、賄賂容疑で降板するまで彼のレコードをかけ続けた。
かつてB.B.キング、ハウリン・ウルフ、プレスリー、ロイ・オービソン、パーキンス、ルイス、キャッシュなどがレコーディングしたユニオン通りのスタジオが古くなったため、フィリップスはメンフィスのマディソン通り639番地に新しい最高水準のスタジオを建て、ナッシュビルにもスタジオをオープンした。1961年、ルイスはナッシュビルのスタジオでレイ・チャールズの『What'd I Say 』をレコーディングし、大ヒットした。ヨーロッパでは1962年9月に『Sweet Little Sixteen 』、1963年3月に『Good Golly Miss Molly 』が立て続けにヒットした。コンパクト盤の『Hang Up My Rock and Roll Shoes 』、『I've Been Twistin' 』、『Money 』、『Hello Josephine 』などが特に初期のディスコで流れるようになった。グレン・ミラー・オーケストラの名曲『イン・ザ・ムード』をインストゥルメンタルのブギ調にアレンジした曲を「ザ・ホーク」という偽名でフィリップス・インターナショナルから発表したが、ディスクジョッキーはその独特のピアノ演奏によりすぐにそれがルイスだと見破り、この策略は失敗した。
1960年代中盤には、イギリスやドイツでルイスは注目されるようになった。1964年、ザ・ナッシュヴィル・ティーンズと共に収録したライヴ・アルバム『Live at the Star Club, Hamburg 』が史上最も優れたロックンロールのライヴ・アルバムの1つと考えられるようになった[19][20][21][22][23]。音楽評論家のスティーブン・トーマス・アールワインは「これまでのレコードの中でも『Live at the Star Club 』は桁外れで斬新でハードなロックンロールだ」と記した[23]。
1965年、カントリーに重きを置いたアルバム『Country Songs for City Folks 』をレコーディングした。1968年、シングル『Another Place, Another Time 』がトップ10にランクインし、これを機に、カントリー・チャートで第1位となった『To Make Love Sweeter For You 』を含み数々の曲がトップ10にランクインするようになった。同時期の元ロカビリーのコンウェイ・トゥイッティのように、カントリーで再度スターダムに上がった。この時期のルイスのカントリーのヒット曲には『What's Made Milwaukee Famous (Has Made a Loser Out of Me) 』、『She Still Comes Around (To Love What's Left of Me) 』、『She Even Woke Me Up to Say Goodbye 』、『Once More With Feeling 』、『There Must Be More to Love Than This 』、『Touching Home 』、『Would You Take Another Chance on Me 』、『Me and Bobby McGee 』、『Think About It, Darlin' 』、『Sometimes a Memory Ain't Enough 』、『Tell Tale Signs 』などがある。1970年、マーキュリー・レコードがスマッシュ・レコードを打ち切り、その後はマーキュリーからシングルやアルバムが発表されるようになった。ルイスの再起により、サン・レコードは1963年以降にレコーディングして未発表の『Invitation to Your Party 』、『One Minute Past Eternity 』、『I Can't Seem To Say Goodbye 』、『Waiting For A Train 』などを発表し、1969年から1970年のカントリー・チャートで上位に入った。ルイスの成功はその後約10年続き、1972年、ザ・ビッグ・ボッパーのクラシック・ロック『Chantilly Lace 』のカヴァー、『Drinkin' Wine Spo-dee-o dee 』、1977年、『Middle Age Crazy 』など、再度ロックにも挑戦し始めた。1979年、エレクトラ・レコードと契約し、1981年の『Thirty-Nine and Holding 』がカントリー・チャートでの最後のヒット曲となった。1983年、MCAレコードと契約したが短期間で離脱した。
1989年、ロック時代の若い頃を基に映画化した『Great Balls of Fire! 』が公開され、劇中で使われる曲を全て再録音することを決心したことなどでルイスは再度注目された。この映画はルイスの3番目の妻マイラ・ゲイル・ルイスによる書籍を基にしており、ルイス役にデニス・クエイド、マイラ役にウィノナ・ライダー、ジミー・スワガート役にアレック・ボールドウィンが配役された。この映画はルイスの初期の頃の経歴、マイラとの関係などが描かれ、1950年代のスキャンダルを中心にしている。翌年1990年、ヒット映画『ディック・トレイシー』のサウンドトラックに新曲『It Was the Whiskey Talkin' (Not Me) 』を共同制作した。この曲は劇中のラジオから流れている設定で聴くことができる。
2007年11月5日、ロックの殿堂およびオハイオ州クリーブランドのケース・ウェスタン・リザーブ大学での6日間の会議やインタビューの映像を収録したDVDを発表。11月10日、クリス・クリストファーソン司会のトリビュート・コンサートが最高潮を迎えた。American Music Masters Award を受賞し、トリビュート・コンサートは『虹の彼方に』で幕を閉じた。