クリーム (バンド)

イングランドのロックバンド

クリームCream)は、イングランド出身のスリーピースロックバンド。1966年、既に成功を収めていたバンドで活動していたジャック・ブルースエリック・クラプトンジンジャー・ベイカーが結成した、ロック界初のスーパーグループの1つである[7][8][9]。1968年に解散したが、僅か2年半の活動で世界を席巻して後続のミュージシャンに多大な影響を与えた。

クリーム
左よりジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルース、エリック・クラプトン
基本情報
原語名Cream
出身地イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル
活動期間
レーベル
旧メンバー

世界でのアルバム総売上は3500万枚以上に及び[10]、 『クリームの素晴らしき世界』(1967年)は世界初のプラチナ認定を受けた2枚組のアルバムとなった[11][12]

VH1誌の 100 Greatest Artists of Hard Rock で第16位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第66位に選ばれた[13]

概要

彼等はスタジオではブルースポップサイケデリアを融合させたサウンドを展開した[2]。一方ステージでは、ジャズやブルースの即興演奏(インプロビゼーション)をロックに導入した先駆者としてスタジオ録音では数分程度だった曲を10分以上かけて演奏。ワウなど当時の最新機材を駆使して大音量のエレクトリックサウンドを披露したことと合わせて、ジミ・ヘンドリックスと共に1960年代ハードロックの源流をなして、同ジャンルの基礎を創り上げたと評されている[14]

楽曲には「クロスロード」や「スプーンフル」などの伝統的なブルースを基本としたもの、「悪い星の下に」などのモダンなブルース、さらにエキセントリックな「ストレンジ・ブルー」「英雄ユリシーズ」「いやな奴」などがある。ヒット曲としては「アイ・フィール・フリー」(UK, #11)、[12] 「サンシャイン・ラブ」(US, #5)、[15]「ホワイト・ルーム」(US, #6),[15]「クロスロード」(US, #28)、[15] 「バッジ」などが挙げられる。ブルースが書いて[注釈 1]リード・ボーカルを取った曲が多かったが、ライブ・アルバムに明らかなように、彼等は全く対等の高度な演奏力を駆使して火花を散らしながら強烈なアドリブを繰り広げ、誰か一人がリーダーシップを取って他を牽引することはなかった。アメリカのレコード会社は彼等をクラプトンとそのバックバンドとして売り出すことを提案したが、勿論拒否された。

彼等の音楽性と演奏スタイルは、レッド・ツェッペリンに代表される後続のブリティッシュ・ハードロック・バンド、マウンテングランド・ファンク・レイルロードなどのアメリカン・ハードロック・バンド[16]、、オールマン・ブラザーズ・バンドグレイトフル・デッドフィッシュなどのジャムバンドラッシュなどのプログレッシブ・ロックバンドにも影響を与えた[17]

因みにベイカーは、音楽誌のインタビューで「クリームがロックだった事は一度もない。あれはインプロヴィゼーションだ」[18]「レッド・ツェッペリンもヘヴィ・メタルも嫌いだ。巨大アンプの爆音が苦痛で堪らなかったからだ」と、後続のバンドやミュージシャンに影響を与えたヘヴィサウンドに嫌悪感を示した[19]

メンバー

経歴

ジンジャー・ベイカーが、ヤードバーズで注目され脱退後ホワイト・ブルースの名門ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズに在籍していたエリック・クラプトンをバンドに誘う。クラプトンは、当時マンフレッド・マンにいたジャック・ブルースをベーシストにするならば、という条件を出す。ベイカーはブルースと非常に仲が悪かったがこの条件を呑み、1966年にデビューする運びとなる。

結成

1966年の7月、クラプトンはすでにヤードバーズとジョン・メイオール&ブルースブレイカーズでの活動によって、イギリスで第一級のブルースギタリストとしての評判を得ていた[2]。 しかしクラプトンは、メイオール・バンドの環境を窮屈に感じ、新しいバンドで演奏することを求めていた。

1966年に、クラプトンは当時グレアム・ボンド・オーガニゼーション[注釈 2](以下「GBO」と略)のバンド・マスターだったベイカーと出会う。ベイカーのバンドにはジャック・ブルースがベース、ハーモニカとピアノを担当、ディック・ヘクストール=スミスらを擁し、バンドは高度な演奏力を評価されていたがベイカーもまたGBOに息苦しく感じていた。高い人気から看板役でボーカル、オルガン担当のグレアム・ボンド薬物中毒に陥りその精神不安定と人間関係にうんざりし[注釈 3]、ボンドの名を冠するバンドの実態は統率が崩れつつあった。「ジンジャーのことはずっと好きだった」とクラプトンは言う。「ジンジャーは、僕がジョン・メイオールと一緒に演奏するのを観に来た。ライブの後、彼のローバーでロンドンまで送ってくれた。彼の車と運転には感動した。彼は新しいバンドを始めたいと僕に言っていて、僕も同じことをずっと考えていた」[20]。 その後2人は私的な音合わせの機会を重ね互いの演奏技術に感銘を受け、ベイカーの方からクラプトンを、まだ名前のない新しいグループに誘うことになった。クラプトンは即座に受け入れるが、ジャック・ブルースをベースとして迎えることが条件だった[12]。クラプトンによると、ベイカーはその提案に驚くあまり、車をぶつけそうになったという[21]。実は、クラプトンはボーカルにスティーヴ・ウィンウッドを迎えたいという願いもあったそうだ。

クラプトンは1966年3月に短期間ブルースブレイカーズでプレイしていた頃に、ジャック・ブルース(ベース・ギター、ボーカル担当)と会ったことがあった[12]。同時期に2人はアメリカに本社があるエレクトラ・レコードがイギリス進出を果たしその記念の一環として制作した英米バンドのセッション・オムニバス・アルバム『ホワッツ・シェイキン』に参加している。表ジャケットにはカーマ・スートラ・レコード専属人気バンドラヴィン・スプーンフル[注釈 4]というエレクトラ社外のバンドが掲載されていた。移籍ではなくこの記念アルバムのためにわざわざ限定契約を交わす気合いの入れようで、支社開設準備とアルバムのイギリス・サイドのプロデュースを担当したアメリカ人ジョー・ボイドも本社に対抗して大胆な奇策を立てた。これがセッション・バンドのザ・パワーハウス で、クラプトンにスペンサー・デイヴィス・グループからスティーヴ・ウィンウッド、ピート・ヨークマンフレッド・マンポール・ジョーンズとブルースという若手では実力人気ともにトップのミュージシャンの集結はイギリスにおいて新興エレクトラレーベルの宣伝と話題作りに成功した。クラプトンはこのセッション参加共演からブルースのボーカルと楽器演奏腕前に感動し、彼と継続的に活動したいと思ったのであった。

クラプトンは知らなかったのだが、ブルースはボンドのバンドに所属していたものの、ベイカーとは非常に仲が悪いことで有名であった[22]。両人は素晴らしいジャズ・ミュージシャンであり、お互いのスキルを尊敬してはいたが、GBOというバンドでは2人のエゴを押さえ込むには小さすぎた。ボンドの人気からバンド活動を続けることは出来たが、内情に関しては徐々に目立ち始めたボンドの奇行と無気力に加え、ブルースとベイカーの険悪な関係からステージ上では演奏を放棄してケンカを始めたり、一方が楽器をサボるほどであった[22]。ベイカーがブルースにクビを宣告した後もブルースはライブに現れ続けた。最終的には、ブルースはベイカーにナイフで脅されるまでバンドから離れなかった。

にもかかわらずベイカーは、メンバーそれぞれが曲と詩を出し合う、協力的なバンドになることを思い描いていた。バンドは「クリーム」と名付けられた。クラプトンとブルース、ベイカーは、すでにブリティッシュ・ミュージック・シーンにおけるブルースやジャズのミュージシャンの間で「cream of the crop(選りすぐりのもの)」と見なされていたからである。クリームに決定する前には、「Sweet 'n' Sour Rock 'n' Roll(甘酸っぱいロックンロール)」という名前も検討されていた。3人の中で、イギリスの中ではクラプトンがもっとも評判を得ていたが、彼はアメリカでは知られていなかった。「フォー・ユア・ラヴ」がBillboard Hot 100にチャートインする前に、ヤードバーズを脱退していたからだ[2]

クリームの非公式なデビューは、1966年7月29日、マンチェスターのライブハウス「Twisted Wheel」でのギグ[23]。正式なデビューは、2日後にウィンザーで開催された『第6回ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル』だった[12][24]。結成間もない彼等にはオリジナル曲も少なかったが、ブルースのカバーの熱の籠った演奏を繰り広げて大観衆を震撼させ、好反響を得た。10月には、ロンドンに来たばかりのジミ・ヘンドリックスが、かねてから憧れていたクラプトンとの共演を熱望して[12]、元アニマルズのベーシストで当時ヘンドリックスのマネージャーだったチャス・チャンドラーによって彼等に紹介された[12]。ヘンドリックスは彼等のステージに登場して「キリング・フロア」のジャムに参加し、クラプトンは彼の凄まじい演奏に衝撃を受けて泣きそうになっていたという。

英米ミュージシャンの交流から彼等のステージにはPAアンプ・スピーカーが林立した。結成初期のうちに、ブルースがリード・ボーカルを取ることが決まった。クラプトンは歌うことを恥ずかしがって[25]、たまにブルースのボーカルにコーラスを付ける程度だったが、やがて「フォー・アンティル・レイト」[26]、「ストレンジ・ブルー[27]、「クロスロード」[28]、「バッジ」[29]などの主だった曲で、リード・ボーカルを取るようになった。

『フレッシュ・クリーム』

クリームのデビューアルバム『フレッシュ・クリーム』は、1966年に録音・発表され、イギリスのチャートで6位、アメリカのチャートで39位を記録した[30]。収録曲は「フォー・アンティル・レイト」、「ローリン・アンド・タンブリン」(マディ・ウォーターズの曲)、「スプーンフル」(ウィリー・ディクスン作曲、ハウリン・ウルフの録音)、「アイム・ソー・グラッド」、「猫とリス」など、主にブルースのカバーだった[31]。他にはブルースが友人の作詞家ピート・ブラウンと共作した「アイ・フィール・フリー」 [注釈 5]やベイカー作の「いやな奴」[注釈 6]などがある。

初期の彼等は多くの曲を演奏するタイトなバンドで、「N.S.U.」や「スウィート・ワイン」「いやな奴」など全ては5分程度にまとめられた。しかし僅か2か月後には、セットリストは短くなり、代わりに各曲の演奏時間がぐっと長くなった。

『カラフル・クリーム』 『クリームの素晴らしき世界』

グリニッジ・ヴィレッジを拠点にして、ヤングブラッズなど様々なミュージシャンやバンドのアレンジャー音楽プロデューサーを務めていたフェリックス・パパラルディが、トム・ダウドによってプロデューサーに招聘された[32]

パパラルディは1967年の「ストレンジ・ブルー」のスタジオ録音を皮切りに、プロデュースだけでなくアレンジとキーボードやヴィオラなど様々な楽器の演奏にも携わった[33][34]

解散と『グッバイ・クリーム』

活動末期 - オランダTV出演時(1968年1月)

結成時より彼等が抱えていた根源的な問題は、ついに彼等を解散に導いた。ブルースとベイカーの対立はバンドに緊張をもたらした。クラプトンもまた、メンバーが互いの意見を十分に聞かないと感じていた。彼は「クリームがコンサートで演奏しているとき、自分が演奏を止めてもベイカーもブルースも気づかない」と語り[22]、後期のコンサートはメンバーの見栄の張り合いだけになっていたとした[35]

彼等は1968年5月のアメリカツアー中に、解散を決断した[36]。7月、アメリカでの解散ツアーとロンドンでの2回のコンサートを最後に解散することが公式発表された。彼等は11月4日のロードアイランドでのコンサートでアメリカツアーを終え、11月25日と26日にロンドンで最後のイギリス公演を行った[36]

解散後

クラプトンとベイカーは直ちにスティーヴ・ウィンウッド[注釈 7](元スペンサー・デイヴィス・グループトラフィック)、リック・グレッチ(元ファミリー)とブラインド・フェイスを結成。解散後、クラプトンは即興演奏がより少ない音楽を求めて、デラニー&ボニーとの共演やデレク・アンド・ザ・ドミノスの結成を経てソロ活動に舵を切っていった。だが彼は薬物と酒におぼれ、1976年には「キープ・ブリテン・ホワイト」という白人主義的な発言に加え、レイシストのイーノック・パウエルを支持する発言を行って厳しい批判を受けた。

ベイカーはブラインド・フェイスを基にジャズ・フュージョンのアンサンブルであるジンジャー・ベイカーズ・エアフォースを結成した。メンバーにはウィンウッド(ボーカル)、グレッチ(ベース)、グレアム・ボンド(サックス)、デニー・レイン[注釈 8](ギター)などがいた。

ブルースは、1969年にパパラルディのプロデュースによるアルバム『ソングス・フォー・ア・テイラー』を発表。その後、様々なソロ活動で成功をおさめた。

再結成

「ロックの殿堂」入りで集結したメンバー (1993年)

1993年ロックの殿堂入りを果たし(プレゼンターはZZトップ)、その場限りの再結成で「サンシャイン・ラヴ」と「クロスロード」「悪い星の下に」の3曲が演奏された。

2005年5月にも、解散前の最後のライヴを行ったロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、再結成ライブが行われた。

2014年にブルースが71歳で、2019年にはベイカーが80歳で亡くなり、現在メンバーで生存しているのはクラプトンただ1人となった。

ディスコグラフィ

スタジオ・アルバム

ライヴ・アルバム

脚注

注釈

出典

引用文献

  • Baker, Ginger; Baker, Ginette (2010). Ginger Baker: Hellraiser. Lonadon: Bonnier Books. ISBN 978-1-84454-966-5 
  • Shapiro, Harry (2010). Jack Bruce: Composing Himself: The Authorised Biography by Harry Shapiro. London: A Genuine Jawbone Book. ISBN 978-1-906002-26-8 

外部リンク

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