ギオルギ7世 (ジョージア王)

ジョージア王

ギオルギ7世グルジア語: გიორგი VIIグルジア語ラテン翻字: Giorgi VII1366年1407年)は、バグラティオニ朝グルジア語版ジョージア王国の王(在位期間1393年–1407年)。

ギオルギ7世
გიორგი VII

ジョージア王
在位期間
1393年1407年
先代バグラト5世グルジア語版
次代コンスタンティネ1世

出生1366年
死亡1407年
ナヒドゥリグルジア語版
埋葬スヴェティツホヴェリ大聖堂グルジア語版
王室バグラティオニ家グルジア語版
父親バグラト5世グルジア語版
母親エレナ・メガリ・コムニニ英語版
配偶者ネスタン=ダレジャン
信仰ジョージア正教会
親署
テンプレートを表示

生涯

ギオルギはジョージア王バグラト5世グルジア語版の息子であり、母親はトレビゾンド皇帝バシレイオス1世ギリシア語版の娘エレナ英語版であった[1]。父バグラトは、1369年にギオルギを共同君主に任命した。

1386年、父バグラトがティムールに敗れ、捕虜となった。王子ギオルギは続く侵攻を撥ね返し、父バグラトを釈放させた。1393年に父バグラトが死去すると、ギオルギは王権を引き継いだ。ギオルギは治世のほとんどをティムールとの戦いに費やした。ティムール朝は1387年から1403年にかけて、抵抗するジョージア王国にさらに7回の侵攻グルジア語版を行った[2]。ティムールの主な目標は、ジョージアを征服し、その国民をイスラム教に改宗させることであった[3]。ギオルギは戦地の住民を山岳地帯へ避難させ、ティムールの破壊的な攻撃に対して抵抗を続けた[4]。ティムールは反抗的な対応を取り続けるジョージアを鎮圧するために、侵攻の大部分を自ら指示した。ティムールはジョージアの統治権を奪うことができなかったが[5]、ジョージアに回復困難な打撃を与えた[6][7][8]。ティムールの残酷な攻撃にもかかわらず、ジョージアの人々は激しく抵抗し、ティムールがギオルギを捕縛をすることは叶わなかった[9]。最終的に1403年、ギオルギはティムールを宗主国として認め、和平を結んだ。ギオルギはキリスト教国の君主として戴冠する権利を保持した。

ティムールとの戦争の後、ジョージア王国の南東の国境に黒羊朝の大軍が接近した。1407年、ギオルギはアルメニア地域においてトルクメンの部隊と接触。ギオルギは荒廃し弱体化したジョージアへの新たなる敵の侵入を阻止するために戦った。18世紀の歴史学者ヴァフシティ・バグラティオニによると、ギオルギはナヒドゥリグルジア語版の戦いにおいて戦死したと記述している。この記録は今日議論となっており、ギオルギは自然死したという説もある[10]。ギオルギの遺体はスヴェティツホヴェリ大聖堂グルジア語版に埋葬された。

ギオルギは子供はおらず、異母弟のコンスタンティネ1世が王位を継承した。

注釈

参考文献

外部リンク