カザークの歴史
この項目では、部分的にではあるがカザークの歴史上の立場について概説する。
概要
カザークとはもともとテュルク語系の言語からロシアに入ったもので、自由な人、放浪する人、さらには剛胆な人という意味で用いられたものである。ロシア語になってからまず最初は、不自由な封建的奴隷民に対して自由な雇傭労働者の意味で用いられたようであり、彼らは当時の大領主であった修道院などに雇われて働いた。このようなカザークについての記録は1395年がはじめであり、十六世紀までこのような意味で使われた模様である。
しかしその一方で、十五世紀頃中庸から新しい概念でカザークという語がつかわれるようになった。それは、辺境で軍務につく者をあらわし、この種のカザークに関する史料は1444年のものがはじめてである。これらカザークは主として南東の国境の町や要塞に配備されていて、そもそもは応募して軍務についたもので、勤務の代償として土地と俸給をもらい、南東部の草原地帯から侵入してくる遊牧民と戦った。彼らのうち町にいたものは「町のカザーク」と呼ばれていた。
当時ロシアの南部、南東部には、十三世紀にヴォルガ河下流のサライを首都として建設したキプチャク汗国 (初代汗はチンギス・カンの孫のバツ)が封建的分解をとげてできたクリミア、アストラハン、カザンなどの小汗国があり、ロシアの国境線との間は、ほとんど無人の野であった。ここはタタール人と総称されるこれら諸国のトルコ系民族の「自由な剛胆な人」つまりカザークの活躍の部隊であり、彼らはタタールの西方、北方への進出の尖兵であった。
一方、ロシアやリトヴァ・ポーランドではこのころから農奴制が次第に強化され、またロシアではモンゴル・タタールの隷属からの独立の闘いが最後の段階にきていた (隷属からの脱出は1480年)。しだいに強まる領主あるいは中央権力の抑圧から脱れて、国境線をこえて、南東部の無人の野に自由の天地を求める農民や都市下層民がふえ、特殊な集団をつくるようになり、彼らもみずからカザークを名乗るようになった。「町のカザーク」に対する「野のカザーク」である。
「町のカザーク」は十七世紀に入って、強制徴収されてくる者で補充されるようになって次第に変質し、不自由民に近づき、十八世紀に入ってピョートル1世の改革で消滅してしまうが、「野のカザーク」のほうは、農奴制の強化、普及にしたがってますます数を増していった。十五世紀後半にはドン、ヴォルガ、ドニエプルの三カザーク集団がはやくも形成され、十六世紀の前半にはザポロージェ・カザークが、後半には北カフカースのチェレク河流域と、ウラルの南のヤイーク (現在のウラル)河の流域にそれぞれ集団ができあがった。そしてこれらのカザーク集団は、ウクライナを含んでロシアの歴史に、ステンカ・ラージンの反乱でみられるように、きわめて重要な要素となり、やがてはカザークといえば、ふつうは「野のカザーク」をさすようになるのである。
カザークたちは、漁撈、狩猟、野生蜜蜂の蜜の採集で生活を立て、やがて牧畜もいとなむようになったが、農業が普及しはじめるのはずっと遅く、やっと十七世紀になってからであった。したがって穀類、火薬、鉄砲などの必需品を入手するには、交易か略奪によらざるをえなかった。ロシア正教徒であるカザークは、異教徒であるタタール人と闘いその居住地をまもるだけでなく、タタール人の町や要塞を襲撃して戦利品を仲間で分配した。
諸公国に分裂していたロシアがモスクワを中心に統一し、モンゴルの隷属から脱してもロシアはなお、クリミアのタタールの侵入になやまされていたので、ロシア政府は、カザークに火薬、鉄砲等の物資を毎年与えて、国境警備に利用していたが、これはいわば独立国間の外交関係の形をとっていた。
このようにカザークはロシア国家の南方あるいは東南方面への進出の尖兵の役目を果す一方で、彼らは逃亡農民を主体としていたため、またタタールに向ける矛先をかえて、主要河川をゆく政府の輸送船や商人の船を襲撃したりするため、ロシア政府の追及を受ける身でもあったのである。当時リトヴァ・ポーランド領であったウクライナにできたドニエプル・カザークあるいはザポロージェ・カザークについても事情は同様であった。
ウクライナとロシアのカザークの社会組織は、名称は異なってはいるが、ほぼ同一で、男子成員全体からなる総会で重要事項を審議決定し、また全体の首長と書記などの役職者を選出する。各部落ごとでも同様な集会がおこなわれた。カザークの歴史は自由独立で勇敢な特殊な軍事的社会集団が、ロシアあるいはリトヴァ・ポーランド政府と友好関係をたもちながら両国の辺境進出を助け、あるいは政府の支配に反抗して戦う二つの局面の交代の歴史であり、こお二つの局面交代をくりかえすうちにカザークは、政府から国税の免除、土地所有の許可などさまざまな特権を代償としてあたえられ、カザーク特有の社会組織を残したまま政府軍のなかに繰り込まれていったのである。
16~17世紀
ウクライナのザポロージェ・カザーク、ロシアのドン・カザークは、その集団の大きさからいっても、また歴史上に果たした役割からいっても、広い意味でのロシアのカザークを代表するものである。本項ではそれについて詳説する。
十六世紀末から十七世紀のはじめに、カザークの活動はその根拠地である地方からはるか遠くまでにも及び、黒海からカスピ海をまたにかけて、トルコやペルシアの海岸地方を荒しまわった。まさに日本史の倭寇を思いおこさせるものであった。また十六世紀の末のはじまったロシア人のシベリア経略の尖兵をはたしたのも、カザークであった。ロシアの民謡にもうたわれているイェルマークは、ヴォルガ流域で略奪をおこなって政府に追及されていたカザークでドンの出身と言われ、当時政府の特許をえてウラルに広大な所領をもって開発にあたっていたストロガノフ一族に部下のカザークとともに傭われて、西シベリアの遠征にでかけたのである。
十六世紀中頃から十七世紀初めにかけて、ロシアでは農奴制が法的に確立すう時期であり、政府支配の手が辺境の地にまで拡大していく時期であった。この農奴制の確立と普及に対する農民側の抵抗は、大量逃亡という形をとってカザーク集団が大きくなっていたことは、十七世紀に入ると農民の抵抗は、農民戦争といえる大規模な反乱の形をとるまでにいたった。こうした農民戦争は1606―07年のボロトニコフの乱、十七世紀末のステパン・ラージンの乱、1707―08年のブラーヴィンの乱、1773―75年のプガチョフの乱と四つをかぞえ、そのうちあとの四つは直接ドンのカザークが中心となっているものであり、最初のボロトニコフの乱にしても直接カザークが中心とはなっていないにしても、ドン・カザークが部隊として参加しており、個々にはザポロージェ・コサックも参加していた。以下ではラージンの乱がどのようにカザークの中から始まったか述べる。
ラージンの乱
1667―71年のラージンの乱は、1649年の会議法典で、逃亡農奴のつれもどし権が無期限とされて、法的に農奴制度が完成したのちに起った農民反乱であった。当時ドン地方は正式にはロシアの国境外にあり、ロシアの法令はおよばなかったが、経済的、政治的にはロシアに従属し、また住民も大部分がロシア人で清教徒であったところから、この地方はロシアに属するものとされていた。経済的な従属とは、農奴制と必然的にむすびつくからといって「ドンでは穀物をまかず」を鉄則としていたカザークたちは、牧畜、漁業、狩猟の産物をロシア南部の商人たちと交易して、穀物などを入手しなければならず、しかも南部の国境防衛線が完備し、しかもウクライナがロシア領に編入された十七世紀中頃からは、ロシア政府はいつでもドンを経済的に閉鎖することができたからである。政治的な従属とは、カザークは「世襲地や封地のゆえではなく、水と草のゆえに陛下に」奉仕するという考え方にあらわれているが、具体的にはロシア政府は1614年の勅令で、カザークを一種の不正規軍としてロシア国家の南部の国境警備等の勤務にひきいれ、その代償として貨幣、穀物、その他の褒賞を与え、さらに非公式にカザーク独特の自治を認め、「ドンから逃亡者を引き渡さず」という強固な慣習をも黙認するという形であらわれていた。
とくに強くこの政治的従属にあったのは少数の富裕カザーク層であった。この層はドン河の下流に集中していて、広大な牧地や漁場を独占し、その経営を下層カザーク層がを傭って維持し、またドン・カザーク全体の首長や書記などの役職も一人占めしていた。ロシア政府から毎年送られてくる報償も、けっして全カザークには分配されず、そのことはモスクワも十分承知していたのである。零細な経営しかもたず、経済的に上層カザークに従属せざるをえない下層カザーク、ことに逃亡してきてまもないカザークにとっては、トルコやクリミア、ペルシアへに遠征は重要な収入源であった。しかしこのような遠征にも武器、食料を自前で用意しなければならないので、下層カザークはそれを富裕なものから借り、戦利品で返さなければならずここでも下層カザークを上層に搾取されていた。そのうえトルコやペルシアなどとの外交関係の悪化をきらうロシア政府は、上層カザークにはたらきかけて遠征を極力おさえさせた。したがって下層カザークは戦利品を目的とする遠征を、正規のカザーク全体での総会をへずに、仲間があつまって勝手にせざるをえないようになっていたが、このような遠征に参加したものは「盗賊カザーク」と呼ばれ、カザーク上層からも、ロシア政府からも追及されることになったのである。このような下層カザークは主としてドンの中流域にあつまっており、1649年の法典以来急増した逃亡農民を加えてこの地方は人口過剰の状態になり、しかもロシア政府は逃亡農民のドン流入をふせぐ目的でここの経済封鎖の手段をとったため、下層カザークの生活は窮迫するにいたった。そのうえ、1666年は飢饉であった。
ステンカ・ラージン (ステパンが正式の名)がカザーク下層民に支持されて、出陣軍の首長に選出され、ドン・カザーク指導部の反対を無視して、1667年にヴォルガ下流、カスピ海からペルシア沿岸の略奪行に出発したのは、こうした社会的・経済的背景があったからである。直接の契機となったのは、1666年夏、ロシア政府の要請なしにワシーリイ・ウスのひきいる約七百人のカザークが、「陛下の俸給をもとめて陛下の勤務」につくためにモスクワに出発し、途中で政府軍にとめられ、なんの成果もえられずドンに帰された事件であった。そのとき大量の逃亡農民が部隊と一緒にドンに入ったが、ロシア政府は強くその引き渡しと、ドン地方の人口調査を要求してきたのである。これがカザークの気分をひどく激昂させた。こうした反ロシア政府、つまり反農奴制的気分が上層カザークへの反対とむすびついて爆発することを恐れたカザーク指導部は、通常の略奪行ならばとラージンたちの行動を黙認したし、また実際上これを阻止することは、彼らにはできなかった。ラージン軍は1667年にたくさんの戦利品をもってドンの帰ってきたが、部隊をとかず、翌年ふたたび出陣し、今度は目標をかえてヴォルガ上流にむかい、その矛先は明白に反農奴制、反ロシア政府の武装行動にむけられたのであり、これに蜂起した農民や被抑圧少数民族が加わって二年間にわたる大農民戦争になったのである。1761年に政府軍に破られドンに逃げ帰ったラージンは、政府から補給された大量の武器をもった上層カザークの部隊に襲撃されて逮捕され、モスクワに送られ、四つ裂きの刑に処せられた。
こうして上層カザークはロシア政府に依存しながら自分たちの自治と特権を維持しようとはかったが、ロシア政府は逆にカザーク内部の階級対立を利用して中央権力の進出をはかっていったと言える。
18~20世紀
カザークの歴史にとって重要な転期は、ピョートル1世の北方戦争の時代であったといえる。ドン地方では1707年にピョートルが逃亡農民の逮捕のために軍隊を派遣したことから、ブラーヴィンの指揮下に下層カザークの大反乱が起って一年以上も続いた。この鎮圧後、政府はドンに対する統制を強化し、1723年には首長を政府任命とし、1754年には指導部はすべて任命制にしてしまった。ブラーヴィンと同時にこれに呼応して反乱をおこしたザポロージェのカザークがロシア側とスウェーデン側に別れて対立していることを利用し、ポルタヴァの戦いのあった1709年にザポロージェの本営 (シーチ)を占領破壊し、彼らはドニエプルの下流に移らざるをえなかった。そしてウクライナのカザーク首長の選挙制も廃止してしまった。
十七世紀以来、自治権をもって政府の不正規軍の役目を果たしたカザーク集団は、こうして少しずつ自治権をうばわれ、少しずつ改編され、また居住地をいどうさせらていったが、このようなツァーリズムの政策をさらに徹底させ、カザークを閉鎖的な特権的軍人身分として、正規軍の中に組み込むようにした契機は、1773―75年の、ロシアにおける最後の農民戦争であるプガチョフ戦争の乱であった。
この乱の指導者プガチョフはラージンと同村出身のドン・カザークであったが、反乱の核となったのはヤイーク (のちのウラル)・カザークであった。この反乱にはバシキール人などの少数民族とウラルの製鉄労働者 (身分は農奴であった)が大量に加わったことによって、ラージンの乱をも上廻るものとなった。このプガチョフの恐怖のもとで、政府は一時再建を許したザポロージェのシーチを廃止し、残ったカザーク軍もまもなく正規軍に解体してしまった。ドン・カザークについては、軍政はもとどおり陸軍省のもとにおいたが、民政を分離してカザークの選出する委員と政府任命委員とからなる特別委員会でおこなうこととし、ウラル・カザークからは大砲を奪ってしまった。
こういう一連の処置とならんで、十九世紀はじめ頃までに、カザーク将校に正規軍将校と同等の権利を許し、その階級に応じて広い土地を完全な私有地として与えて、ロシア貴族との融合をはかり、また一般のカザークには一人30デシャチーナ(約33町歩)というロシア南東部の農民の十倍近くの土地保有を約束し、そのことによって一般のカザークをも政府の忠誠な軍人に仕立てあげようとはかった。
こうして完全に政府の統制下に入ったカザーク軍は、いわば屯田兵的な性格をもつこととなった。軍国の所在地すべての事項は、陸軍省のカザーク軍総局の管轄下におかれた。全カザーク軍総司令官 (首長、アタマン)は皇太子とされ、各軍と管区の司令官は任命制で、その下の大村、村、部落段階 (これがそのまま部隊の単位ともなる)の指揮官 (首長)はそれぞれのカザーク総会で選出される。十八歳以上のカザークは、一定の土地を与えられるかわりに、被服、装備、乗馬、サーベル、槍を自弁でととのえ二十年の軍務 (うち教育期間三年―のちに一年に短縮、現役四年、予備役八年、後備役五年)に服した。帝政末期のカザーク軍は、最大のものがドンとクバン (北カフカース)にあり、そのほかヨーロッパ部分にはチェレク、ウラル、オレンブルク、アストラハンに、アジア部分にはセミレーチエ、シベリア、ザバイカル、アムール、ウスリーの計十一軍団とはかきシベリアに居住する二集団、一独主連隊からなっていて、平時約七万、戦時二十八万五千であった (その家族をあわせて1996年で四百四十三万四千人)。以上のようなカザークの身分は、特権を保証されていることによって、また祖先の誇りともまじって、身分的特権意識をかたちづくり、それと同時に強い共同体意識と、それと裏腹な同じ地域に住む一般農民に対する差別意識を生みだし、また特別に選抜されてできる近衛カザーク軍隊もおかれたこととあいまって、ツァーリズムの信頼できる武力となり、二十世紀に入って兵器の進歩によって騎兵の役割が低下すると、国内警察軍の役割をおわされることとなった。
しかし、「勤務の代償としての土地所有」という方法でカザーク社会を旧守的なものにとどめようといかに政府がつとめようとも、十九世紀後年からの農村への資本主義の浸透の影響は、ここにもあらわれてこざるをえなかった。経済生活において重要な漁業は大規模なものはよそ者の資本家の手ににぎられ、農業でも工芸作物の加工はやはり外来のブルジョワジーの手中にあり、一般に流通面でよそ者の支配をうけていた。こういう商品経済の波をかぶってカザーク内に貧農、中農、富農がでてくるのだが、全体としては、資本主義の発展のまえに守勢にたたざるをえないカザークはこれに反感をいだき、保守的性格を残していた。
革命
カザーク内の階級対立は、第一次世界大戦中に明白にあらわれ、前線に出動しているカザークが革命運動に加わった。1905―07年の革命のときにはまだわずかの部隊しか革命の側につかなかったカザーク軍は、帝政を倒した1917年の二月革命のときは、民衆の側に完全に移ったのである。シベリアのいくつかの地域ではカザーク代表ソビエトがつくられ、ブルジョワ・地主の政権である臨時政府は、カザーク軍同盟ソビエトを作るのを助けてカザークを味方につけようと努め、また三月から五月に各カザーク軍の所在地では軍司令官を首班とする軍政府がつくられ、臨時政府を支持したが、臨時政府の最高総司令官コルニーロフ将軍のクーデターには前線のカザーク兵士大衆は支持を与えなかった。1917年の十月革命時には、首都の武装蜂起にさいしてカザーク部隊は中立の立場をとって、臨時政府の側にたたなかった。
しかし各地のカザーク軍政府は臨時政府に忠誠を誓い、ドンでは軍司令官カレージンが臨時政府の復活まで政権を引き受けることを宣言し、ドゥートフを首長とするオレンブルクのカザーク反革命軍やその他の自衛軍と連絡をとり、カザークの自治権とカザーク地方の連盟をスローガンにかかげて、反革命勢力の統合をはかり、十一月にはコルニーロフ将軍やデニキン将軍もドンにやってきて主として将校からなる義勇軍の結成がはじまり、ドンはロシア南部の反革命の一大中心となった。
革命の側にたつ貧農と、反革命側にたつ富農の間を中農カザークは動揺をくりかえさざるをえなかったのである。1917年10月から20年末の国内戦時代のつぎにカザーク農民にとっての一大転換期となったのが、すべてのソビエト農民と同じく、1929年秋から始まる農業集団化であったのは、いまさら述べるまでもないだろう。
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