オリビエ・ジャンドビアン

ベルギーのレーシングドライバー (1924-1998)

オリヴィエ・ジャンドビアンOlivier Gendebien1924年1月12日 - 1998年10月2日)は、ベルギーブリュッセル出身のレーシングドライバー[1]。「ゲンデビエン」と表記されている場合もある[2]

オリビエ・ジャンドビアン
Olivier Gendebien
ジャンドビアン(左)とエンジニアのジョット・ビッザリーニ(右)
基本情報
国籍ベルギーの旗 ベルギー
出身地ブリュッセル
生年月日1924年1月12日
没年月日 (1998-10-05) 1998年10月5日(74歳没)
F1での経歴
活動時期1956年 - 1961年
過去の所属チームスクーデリア・フェラーリ
エキップ・ナショナル・ベルジュ
ヨーマン・クレジット
UDTレイストール
出走回数15(14スタート)
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数2
通算獲得ポイント18
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1956年アルゼンチンGP
最終戦1961年アメリカGP
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スポーツカー耐久レースの名手として知られ、ル・マン24時間レース総合優勝4回など輝かしい成績を収めた。

経歴

曽祖父(母方の祖母の父親)はベルギーの大手化学企業ソルベイの創業者エルネスト・ソルベイ[3]。ブリュッセルの裕福な家庭で育ち、貴族的な物腰を備え、陸上・馬術・スキー・テニスなど優れたスポーツマンでもあった[4]。大学生の頃に第二次世界大戦が始まると、ドイツ占領軍に抵抗するレジスタンスの一員として活動した[1]。その後イギリスへ脱出し、イギリス軍特殊空挺部隊 (SAS) のベルギー人パラシュート部隊に所属した[3]

終戦後の1948年にアフリカのベルギー領コンゴへ渡り、農業技師として土地開拓事業に関わった[3]。そこで荒れた未舗装路の運転技術を認められ、ラリードライバーのシャルル・フレキン (Charles Fraikin) に誘われ、ヨーロッパへ戻るとモータスポーツ活動を始めた[1]

1952年、フレキンのコ・ドライバーとしてジャガー・XK120に乗り、リエージュ-ローマ-リエージュ・ラリーに参加。1953年よりミッレミリアスパ24時間、ニュルブルクリンク1000kmなどのスポーツカーレースにも参戦し、スパ・フランコルシャンのカップ戦でフェラーリ・166MMをドライブして初優勝した。

1955年、ル・マン24時間に初出場し総合5位。ドロミテ杯ではメルセデス・ベンツ 300SLを駆り、フェラーリのワークスマシンを破って優勝。これがきっかけでフェラーリに抜擢され、RAC ツーリスト・トロフィーの遠征メンバーに加わったが、予選中のクラッシュで負傷し欠場した。

1966年はフェラーリのレギュラードライバーに定着し、F1デビュー戦のアルゼンチンGPで5位入賞。その後はおもにスポーツカーレースの戦力として重用され、世界選手権シリーズを戦うワークスチーム(スクーデリア・フェラーリ)やベルギーのフェラーリ系ディーラーチーム(エキュリー・フランコルシャンやエキュリー・ナショナル・ベルジュ)で数多くのレースに出走した。

1957年はメジャーレースのランス12時間 (12 Hours of Reimsとツール・ド・フランス (Tour de Franceフェラーリ・250をドライブして優勝。1958年はフェラーリ・250TRをドライブし、ビッグイベントのタルガ・フローリオとルマン24時間を初制覇。ル・マンでコンビを組んだフィル・ヒルとは”車を丁寧に扱う”という耐久レース向きなセンスが共通しており、名コンビとして定着する。1959年はセブリング12時間で初優勝。

1960年はフェラーリからポルシェへ移籍し、セブリング12時間を連覇。ル・マン24時間はフェラーリに復帰し、2度目の優勝を飾る。また、ヨーマン・クレジット・レーシング(BRP)のクーパークライマックスでF1に参戦し、地元ベルギーGPで3位初表彰台、続くフランスGPで2位と連続表彰台を獲得した(シリーズランキング6位)。

1961年はセブリング12時間(3連覇)、タルガ・フローリオ(2勝目)、ル・マン24時間(3勝目)という好成績を記す。F1はベルギーGPにスポット参戦し、フェラーリの1-4位独占(ヒル-フォン・トリップス-ギンサー-ジャンドビアン)に名を連ねた。

1962年はタルガ・フローリオ(3勝目)とニュルブルクリンク1000kmで優勝。そして、ル・マン24時間3連覇という偉業を残し38歳で引退した。ル・マン24時間通算4勝(ヒルとのコンビでは3勝)という記録は、1981年に同郷の後輩ジャッキー・イクスに破られるまで個人最多勝記録として残った。

1998年、ベルギー国王アルベール2世からベルギー王冠勲章 (Order of the Crownを贈られた[4]。同年10月2日、フランス南部タラスコンの自宅で死去。74歳没。

主な成績

スポーツカーレース

ル・マン24時間

エントラントコ・ドライバーマシンクラス周回総合順位クラス順位
1955年 エキュリー・ナショナル・ベルジュ ヴォルフガング・ザイドルポルシェ・550 RSスパイダーS
1.5
2765位2位
1956年 スクーデリア・フェラーリ モーリス・トランティニアンフェラーリ・625LMS
3.0
3743位2位
1957年 モーリス・トランティニアンフェラーリ・250TRS
5.0
109DNFDNF
1958年 フィル・ヒルフェラーリ・250TR/58S
3.0
3051位1位
1959年 フィル・ヒルフェラーリ・250TR/59S
3.0
263DNFDNF
1960年 ポール・フレールフェラーリ・250TR/59/60S
3.0
3141位1位
1961年 SEFACフェラーリ フィル・ヒルフェラーリ・250TR/61S
3.0
3331位1位
1962年 フィル・ヒルフェラーリ・330TRI/LME
+3.0
3311位1位

F1

エントラントシャシーエンジン1234567891011WDCポイント
1955年エキップ・ナショナル・ベルジュフェラーリ・625F1フェラーリ 2.5L L4ARGMON500BEL
DNA
NEDGBRITANC0
1956年スクーデリア・フェラーリフェラーリ・555F1フェラーリ 2.5L L4ARG
5
MON500BEL23位2
ランチア-フェラーリ・D50ランチア 2.5L V8FRA
Ret
GBR
DNA
GERITA
1958年スクーデリア・フェラーリフェラーリ・246F1フェラーリ 2.4L V6ARGMONNED500BEL
6
FRAGBRGERPORITA
Ret
MOR
Ret
NC0
1959年スクーデリア・フェラーリフェラーリ・246F1フェラーリ 2.4L V6MON500NEDFRA
4
GBRGERPORITA
6
USA15位3
1960年スクーデリア・フェラーリフェラーリ・246F1フェラーリ 2.4L V6ARG
DNA
MON500NED6位10
ヨーマン・クレジット・レーシングチームクーパー・T51クライマックス 1.5L L4BEL
3
FRA
2
GBR
9
POR
7
ITAUSA
12
1961年エキップ・ナショナル・ベルジュエメリソン・Mk2マセラティ L4MON
DNQ
NED14位3
スクーデリア・フェラーリフェラーリ・156F1フェラーリ 1.5L V6BEL
4
FRAGBRGERITA
UDTレイストール・レーシングチームロータス・18/21クライマックス 1.5L L4USA
11

出典

参考文献

外部リンク

タイトル
先代
ロン・フロックハート
アイバー・ビューブ
ル・マン24時間歴代勝者
1958年 with:
フィル・ヒル
次代
キャロル・シェルビー
ロイ・サルヴァドーリ
先代
ロイ・サルヴァドーリ
キャロル・シェルビー
ル・マン24時間歴代勝者
1960
with:
ポール・フレール
次代
オリヴィエ・ジャンドビアン
フィル・ヒル
先代
オリヴィエ・ジャンドビアン
ポール・フレール
ル・マン24時間歴代勝者
1961年 with:
フィル・ヒル
次代
オリヴィエ・ジャンドビアン
フィル・ヒル
先代
オリヴィエ・ジャンドビアン
フィル・ヒル
ル・マン24時間歴代勝者
1962年 with:
フィル・ヒル
次代
ルドヴィコ・スカルフィオッティ
ロレンツォ・バンディーニ