オブロナ・ポトチュナ

オブロナ・ポトチュナ (ポーランド語: Obrona potoczna) は、15世紀から16世紀にかけて、ポーランド王国ポーランド・リトアニア共和国で活躍した傭兵部隊。王国南部の国境地帯で、タタールモルダヴィアオスマン帝国ワラキアの侵入を防いだ[1]

"タタールの踊り" (ユリウシュ・コッサク画)

歴史

ヤン1世 (ヤン・マテイコ画)

15世紀半ばまでに、南東の紅ルーシやポリージャにオブロナ・ポトチュナが組織されたのは1479年であるが、それ以前から似たような軍事組織の創設がポーランドのセイムでは何度も議論されていた[1]。 部隊創設と資金調査を指揮したのは、王国南辺の防衛に当たっていたヤン・オルブラフト(後のポーランド王ヤン1世)だった[1][2]。15世紀末までにオブロナ・ポトチュナは恒久的な組織となった(なお構成員は季節ごとに交代したので常備軍ではない)。こうした形態の軍隊の必要性は、15世紀半ばには認識されていた。タタール人の紅ルーシポジーリャへの侵入が頻繁に発生し、必要な時に軍を招集する伝統的なポスポリテ・ルシェニエでは対処できなくなっていたためである。オブロナ・ポトチュナの初代司令官ヤン・カルンコフスキは、後に「傭兵ヘトマン」にも任じられた。当初の規模は歩兵1200人、騎兵900人で、必要に応じて増減した。16世紀初頭の時点では2000人ほどであった[3]。兵への給料はもっぱら王が支出し、貴族が負担することはほとんどなかった[4]

『タタール人との戦闘』(19世紀のヨゼフ・ブラント画)

兵士の多くはポジーリャやルテニアシュラフタで、カミェニェツ・ポドルスキトレンボフラ、バールに駐屯した。過酷な環境と戦場をくぐりぬけたオブロナ・ポトチュナは、当時のポーランド・リトアニア共和国最強の部隊となった[1]。またオブロナ・ポトチュナは国境防衛のみならずポーランド軍の遠征にも帯同し、モルダヴィアとのオバーディンの戦いなどで活躍した[3]。1563年、ステファン・バートリが軍制改革を行い、オブロナ・ポトチュナは常備軍ヴォイスコ・クヴァルツァネ(四半期軍)に取って代わられた。リヴォニア戦争で活躍したステファン・バートリ麾下の良将の多くは、オブロナ・ポトチュナの指揮官出身であった[5]

脚注

関連項目