イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)

ハンガリーの君主

イシュトヴァーン1世(I. István、969年または975年 - 1038年8月15日 、大首長・ハンガリー国王として997年 - 1038年)は、ハンガリー王国の初代国王。幼名はヴァイク(Vajk)。ハンガリーのキリスト教化に貢献し、カトリック教会では聖人として列聖されている。8月20日は、「聖イシュトヴァーンの日」としてハンガリーの祝日に定められている[1]聖王とも呼ばれる。

イシュトヴァーン1世
I. István
ハンガリー国王
在位997年 - 1038年
戴冠式1000年12月25日または1001年1月1日
別号聖王

出生969年または975年
ハンガリー公国、エステルゴム
死去1038年8月15日
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国、エステルゴムまたはセーケシュフェヘールヴァール
埋葬ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国、セーケシュフェヘールヴァール
配偶者ギーゼラ・フォン・バイエルン
子女イムレ(hu)ら3人の息子
アガタら2人の娘
家名アールパード家
王朝アールパード朝
父親ゲーザ (ハンガリー大公)英語版
母親サロルト (Sarolt)
宗教ローマ・カトリック
サイン
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生涯

国王即位まで

ヴァイク(のちのイシュトヴァーン1世)は、マジャル人の大首長でハンガリー大公ゲーザ英語版の息子として、969年または975年エステルゴムで生まれた。985年プラハの聖アダルバートから洗礼を受け、イシュトヴァーン(ドイツ語:シュテファン Stephan )の洗礼名を授けられた。995年バイエルン公ハインリヒ2世の娘ギーゼラと結婚し、彼女との間に少なくともイムレハンガリー語版ら3人の息子とアガタ(イングランド王エドワード・アシリング夫人)ら2人の娘(もう一人はブルガリア皇帝ガヴリル・ラドミール英語版夫人)がいたが、息子たちはいずれもイシュトヴァーンより先にこの世を去った。

997年、父ゲーザの死を受けて大首長となったイシュトヴァーンは、各地へ軍事遠征を行ってハンガリーの統一を進め、1000年12月25日(1001年1月1日とする説もある)にローマ教皇シルウェステル2世から授かった冠を用いて、エステルゴムで戴冠式を行った。こうして、正式にハンガリー王国が成立した[2]

王国の統治政策

イシュトヴァーンは、父ゲーザ以来続いていたハンガリーのキリスト教化を進展させた。エステルゴムとカロチャKalocsa)に大司教区を設置し、その他にも8つの司教区を置いた。修道院付属の学校が創設され、ラテン語の普及など文化の振興が進んだ。こうしたハンガリーの教会組織は、オットー1世以来その勢力を強める神聖ローマ帝国から独立した地位にあった。また、彼は王国を県に分け、各県に地方長官(イシュパーン)を配置した。そして、王国統治の根幹となる法令をラテン語で制定、発布した[2]

晩年

1031年、自らの後継者と考えていた息子のイムレ(en)が亡くなった。イシュトヴァーンは悲嘆に暮れ、自らの体調も崩した。やがて回復するものの、かつてのような勢いある王の姿はみられなかった。1038年、死去。遺体はブダペストの西方にあるセーケシュフェヘールヴァールの大聖堂に埋葬された。現在は、この都市にイシュトヴァーン博物館が置かれている。

没後

イシュトヴァーンの死後は、息子が既に皆亡くなっていたため、王位継承をめぐって内乱に突入した。さらに、キリスト教化を拒む勢力の反乱も加わったため、王国は混乱を極めた。11世紀末、この反乱を収めたラースロー1世によって、イシュトヴァーンは1083年に聖人として列聖された[3]

脚注

参考文献

  • 沼野充義監修『中欧 ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』新潮社〈世界の歴史と文化〉、1996年2月20日。ISBN 4-10-601843-8 
  • 南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社〈新版 世界各国史 19〉、1999年3月。ISBN 978-4-634-41490-7 

関連項目

外部リンク

先代
ゲーザ (ハンガリー大公)
ハンガリー王
997 - 1038
次代
ペーテル・オルセオロ