アンケ・フーバー

アンケ・フーバーAnke Huber, 1974年12月4日 - )は、ドイツ・ブルッフザール出身の元女子プロテニス選手。1996年全豪オープンテニスの女子シングルス準優勝者。長い間世界ランキング1位の座に君臨したシュテフィ・グラフとともに、ドイツ・テニス界を支えてきた選手である。シングルス自己最高ランキングは4位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルス12勝、ダブルス1勝を挙げた。グランド・ストロークの強打を最大の武器にした。

アンケ・フーバー
Anke Huber
アンケ・フーバー
基本情報
国籍ドイツの旗 ドイツ
出身地同・ブルッフザール
生年月日 (1974-12-04) 1974年12月4日(49歳)
身長173cm
体重58kg
利き手
バックハンド両手打ち
ツアー経歴
デビュー年1989年
引退年2001年
ツアー通算13勝
シングルス12勝
ダブルス1勝
生涯通算成績577勝354敗
シングルス447勝225敗
ダブルス130勝129敗
生涯獲得賞金$4,768,292
4大大会最高成績・シングルス
全豪準優勝(1996)
全仏ベスト4(1993)
全英4回戦(1991・93・95・
2000・01)
全米ベスト8(1999・2000)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪3回戦(1994-96)
全仏ベスト4(1992)
全英3回戦(1992・2000)
全米ベスト8(2000)
国別対抗戦最高成績
BJK杯優勝(1992)
ホップマン杯優勝(1995)
キャリア自己最高ランキング
シングルス4位(1996年10月14日)
ダブルス23位(1998年2月9日)

来歴

1989年1月に14歳でプロ入り。1990年にプロ初優勝を果たし、この年から女子テニス国別対抗戦「フェデレーションカップ」(当時の名称)の西ドイツ代表選手に選ばれた。(注:ドイツ再統一1990年10月3日に実施されたため、フーバーのテニス経歴はほとんど「ドイツ」国籍による。)1991年全豪オープンで世界の舞台に頭角を現す。強烈なグラウンド・ストロークから、最初は“グラフ2世”と呼ばれた。1992年のフェデレーションカップで、フーバーはグラフとともにドイツ・チームを5年ぶり2度目の優勝に導いた。1993年全仏オープンで初の準決勝に進出するが、グラフに 1-6, 1-6 で完敗した。

1995年11月の女子テニスツアー年間最終戦「チェイス選手権」(当時の名称)で準優勝。その時の準々決勝で日本の伊達公子に逆転勝ちしたフーバーは、女子テニストーナメント唯一の5セット・マッチで戦われる決勝戦で、5歳年上の先輩グラフとフルセット(セットカウント 2-3, スコア:1-6, 6-2, 1-6, 6-4, 3-6)を戦った。(この5セット・マッチ決勝戦は、1998年を最後に廃止された。)フーバーはグラフには通算10戦全敗で一度も勝利を挙げることは出来なかった。

1996年全豪オープンで初の4大大会決勝進出を果たしたが、1993年の刺傷事件から復帰してきた第1シードのモニカ・セレシュに 4-6, 1-6 のストレートで敗れ、フーバーは準優勝に終わった。1998年全豪オープンでベスト4、1999年全米オープン2000年全米オープンでベスト8に進出している。

フーバーはオリンピックのドイツ代表選手としても、1992年バルセロナ五輪1996年アトランタ五輪の2度出場記録がある。フェドカップ1995年から現在の名称に変更)のドイツ代表選手としても、1990年から現役引退する2001年までその位置にとどまった。彼女は「シングルス通算勝利数」(24勝9敗)でドイツ・チームの歴代1位記録保持者である。

1999年8月に先輩のグラフが現役を引退してからは、フーバーが“孤軍奮闘”状態でドイツ・テニス界を支えた。2001年11月、地元ドイツ・ミュンヘンの「オリンピアホール」で開かれたWTAツアー選手権を最後に現役を引退する。最後の試合の相手はベルギージュスティーヌ・エナンで、1回戦で 1-6, 2-6 の完敗に終わった。地元での最後の試合であったが、会場のオリンピア・ホールに集まった観客は半分ほどであり、ドイツにおけるテニス人気の衰退を印象づけた場面だった。フーバーの引退後ドイツの女子テニス界は長く低迷したが、2010年代からアンドレア・ペトコビッチザビーネ・リシキアンゲリク・ケルバーなどが活躍している。

フーバーは2005年4月に長男、2006年10月に長女を出産している。

WTAツアー決勝進出結果

シングルス: 23回 (12勝11敗)

大会グレード
グランドスラム (0–1)
ツアー選手権 (0–1)
ティア I (1–1)
ティア II (4–6)
ティア III (4–1)
ティア IV & V (3–1)
結果No.決勝日大会サーフェス対戦相手スコア
優勝1.1990年8月20日 スケネクタディハード マリアン・ワーデル6–1, 5–7, 6–4
準優勝1.1990年9月24日 バイヨンヌハード (室内) ナタリー・トージア3–6, 6–7(8)
優勝2.1991年10月14日 フィルダーシュタットハード (室内) マルチナ・ナブラチロワ2–6, 6–2, 7–6(4)
準優勝2.1993年1月11日 シドニーハード ジェニファー・カプリアティ1–6, 4–6
優勝3.1993年7月12日 キッツビュールクレー ジュディス・ヴィースナー6–4, 6–1
準優勝3.1993年10月18日 ブライトンカーペット (室内) ヤナ・ノボトナ2–6, 4–6
優勝4.1994年7月25日 スティリアクレー ジュディス・ヴィースナー6–3, 6–3
優勝5.1994年10月16日 フィルダーシュタットハード (室内) マリー・ピエルス6–4, 6–2
優勝6.1994年11月13日 フィラデルフィアカーペット (室内) マリー・ピエルス6–0, 6–7(4), 7–5
優勝7.1995年10月1日 ライプツィヒカーペット (室内) マグダレナ・マレーバ不戦勝
準優勝4.1995年11月13日 ニューヨークカーペット (室内) シュテフィ・グラフ1–6, 6–2, 1–6, 6–4, 3–6
準優勝5.1996年1月28日 全豪オープンハード モニカ・セレシュ4–6, 1–6
優勝8.1996年6月17日 スヘルトーヘンボス ヘレナ・スコバ6–4, 7–6(2)
準優勝6.1996年8月12日 ロサンゼルスハード リンゼイ・ダベンポート2–6, 3–6
優勝9.1996年10月6日 ライプツィヒカーペット (室内) イバ・マヨリ5–7, 6–3, 6–1
準優勝7.1996年10月13日 フィルダーシュタットハード (室内) マルチナ・ヒンギス2–6, 6–3, 3–6
優勝10.1996年10月21日 ルクセンブルクカーペット (室内) カリナ・ハブスドバ6–3, 6–0
準優勝8.1997年2月10日 パリカーペット (室内) マルチナ・ヒンギス3–6, 6–3, 3–6
準優勝9.1997年8月11日 トロントハード モニカ・セレシュ2–6, 4–6
優勝11.2000年4月16日 リスボンクレー ナタリー・ドシー6–2, 1–6, 7–5
優勝12.2000年7月17日 ソポトクレー ガラ・レオン・ガルシア7–6(4), 6–3
準優勝10.2001年2月5日 パリカーペット (室内) アメリ・モレスモ6–7(2), 1–6
準優勝11.2001年5月26日 ストラスブールクレー シルビア・ファリナ・エリア5–7, 6–0, 4–6

ダブルス: 4回 (1勝3敗)

結果No.決勝日大会サーフェスパートナー対戦相手スコア
準優勝1.1993年10月18日 ブライトンカーペット (室内) ラリサ・ネーランド ローラ・ゴラルサ
ナタリア・メドベデワ
3–6, 6–1, 4–6
優勝1.1997年5月4日 ハンブルククレー マリー・ピエルス ルクサンドラ・ドラゴミル
イバ・マヨリ
2–6, 7–6(1), 6–2
準優勝2.1999年1月11日 シドニーハード メアリー・ジョー・フェルナンデス エレーナ・リホフツェワ
杉山愛
3–6, 6–2, 0–6
準優勝3.1999年10月18日 モスクワカーペット (室内) ジュリー・アラール=デキュジス リサ・レイモンド
レネ・スタブス
1–6, 0–6

4大大会シングルス成績

略語の説明
 W  F SFQF#RRRQ#LQ A Z#PO G  S  B NMS P NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会199019911992199319941995199619971998199920002001通算成績
全豪オープン3RQFQF4R3R4RF4RSF2R1RA33–11
全仏オープンA3R2RSF4R4R4R1RAA4R2R21–9
ウィンブルドン2R4R3R4R2R4R3R3RA1R4R4R23–11
全米オープン1R2R1R3R2R4R1R3R1RQFQF3R19–12

外部リンク