アブー・ジャアファル・ハーズィン

アブー・ジャアファル・ハーズィンAbū Ja‘far al-Khāzin)は、10世紀の天文学、数学者[1]:275

生涯については、イブン・ナディームの『目録の書』、イブン・キフティーの『諸学者列伝』が情報源である[2]。イブン・ナディームは「フラーサーニー」のニスバを付けて呼んでおり、ホラーサーンの出身であるようである[2]。最近まで、「アブー・ジャアファル・ハーズィン」と同時代にもうひとり「アブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン・フサイン」という名の数学者がいるものと認識されていたが、両者が同一人物であることが1978年に明らかにされた[1]。なお「ハーズィン」には「会計係」の意味がある[3]

生没年不詳であるが、900年ごろに生まれ、971年ごろに亡くなったものとみられる[2][4]。イラン系のサービア教徒[2][5]あるいは南アラビアのサバア王国にルーツを持つイラン人である[4]

ハーズィンが生きた10世紀の西アジアはブワイフ朝の勢いが盛んな時代であり、政権の中心地のひとつライイは学術・文化における主要なセンターになっていた[4]。ハーズィンは、そのようなブワイフ朝ライイ政権のアミール、アドゥドゥッダウラ(在位949年-983年)の宮廷に連れてこられた科学者のひとりである[6]。959年あるいは960年、ライイの宰相アブル・ファドル・イブヌル・アミードは、宮廷科学者らに黄道傾斜角の測定を命じた[2][6]。ハーズィンらは直径4メートルの輪を使って測定した[2]

主著とされる Zīj al-ṣafā'iḥ は後続の科学者たちによく参照されている[2]。同書は、表が刻印された板を備えたアストロラーベなど、いくつかの天文器具とそれらの使い方に関する本である。同書に基づいて制作されたレプリカがドイツに現存していたが、第二次世界大戦中に失われた。レプリカの写真が写されており、天文学史家のデイヴィッド・キングが1980年に検証した[7]

ハーズィンは2世紀の学者クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』の註解書も書いている。プトレマイオスの述べたことに関し、ハーズィン自身も19個の定理・命題を示し、また、プトレマイオスのものとは異なった形の宇宙構造(コスモス)を提示した[4]

出典

  • Rashed, Roshdi (1996). Les Mathématiques Infinitésimales du IXe au XIe Siècle 1: Fondateurs et commentateurs: Banū Mūsā, Ibn Qurra, Ibn Sīnān, al-Khāzin, al-Qūhī, Ibn al-Samḥ, Ibn Hūd. London: Islamic Heritage Foundation. pp. 737–778, 779–833 (Texte et Traduction: Abū Ja‘far al-Khāzin, Transcrit du commentaire du premier livre de l’Almageste Min al-sharḥ li-al-maqāla al-ülā min al-Majisṭī). ISBN 1-873992-18-1