アウトルック (イギリスの雑誌)

ジ・アウトルック』(The Outlook)、ないし、『アウトルック』(Outlook) は、「評論 (review)」とも、「政治雑誌 (political magazine)」とも位置づけられた、かつて発行されていたイギリス週刊誌[1][2]。ストラップライン (strapline) と称される、雑誌名で始まるスローガンは「The Outlook: In Politics, Life, Letters, and the Arts(ジ・アウトルック、政治、生活、文学、芸術の展望)」であった。前身となったのは前衛的内容で知られた『ニュー・レビュー (New Review)』で、この雑誌は1889年W・E・ヘンリー英語版が創刊し、ジョゼフ・コンラッドヘンリー・ジェイムズH・G・ウェルズらの作品を掲載したが、発行部数の少なさから1897年に廃刊に至っていた[3][4]

ジョージ・ウィンダム、1900年代撮影。
初代編集長パーシー・ハード、後年である1929年撮影。
編集長ジェームズ・ルイス・ガーヴィン、1913年撮影。

1897年に、ヘンリーが『ニュー・レビュー』誌の編集者を辞任した後、1898年2月、ヘンリーの出版に関わったことがあった庶民院議員ジョージ・ウィンダム (初代ルコンフィールド男爵)が、『アウトルック』誌を創刊した[4]。コンラッドは、創刊から1906年まで、常連寄稿者であった。創刊時に、コンラッドは次のように述べていた。

新しい週刊誌が出る。『ジ・アウトルック』という誌名、価格は3ペンス、傾向は文学的、方針は帝国主義、御都合主義が身上で、その使命といえば某ユダヤ人に金を儲けさせること、編集長はパーシー・ハード(何処の馬の骨だ)...

There is a new weekly coming. Its name The Outlook; its price three pence sterling, its attitude — literary; its policy — Imperialism, tempered by expediency; its mission — to make money for a Jew; its editor Percy Hurd (never heard of him) ...[3]

当時、この雑誌には、ウィンダムと親しかったセシル・ローズが資金を出しているという噂があり、スコット・コーエンが指摘するところでは、ラドヤード・キップリングマックス・ビアボーム英語版のような寄稿者たちによる「バランスがとれた思慮深い (balanced and thoughtful)」寄稿よりも優先されていたのは、「帝国に関わる事項についてニュースや解説記事を提供することであった。『アウトルック』誌は、しばしば帝国の政治や政策について、その先行者の特徴だった醒めた反省からはほど遠い、甲高い主戦論的論調で報じた (providing news and commentary on imperial affairs. More often than not, the Outlook reported on imperial politics and policy in a tone of shrill jingoism that differed markedly from the sober reflection which had characterized its predecessor)」という[3][5]

ウィンダムは、庶民院議員としての職責の重荷のため、1904年にはこの雑誌から手を退いた[4]。この時点で、ジョゼフ・チェンバレン関税改革同盟英語版を支持していた『アウトルック』誌は、トランスヴァール植民地における鉱業に関わって財を成したチャールズ・シドニー・ゴールドマン英語版によって買収された。ゴールドマンは、ジェームズ・ルイス・ガーヴィン英語版を編集長に据えた[6]。ガーヴィンは、エドワード・グリッグ英語版ウィリアム・ビーチ・トマス英語版E・C・ベントリーらを雇い入れ[2]サラ・ジャネット・ダンカン英語版の作品を掲載するなどした[7]。ガーヴィンの指揮の下、同誌は、1906年イギリス総選挙に際して保守党を支持し、自由党に反対した。ガーヴィンは、この事業を黒字にすることができないまま、1908年1月に職を辞し、『オブザーバー』紙の編集長となった[8][9][10]

ガーヴィンの辞職後も、『アウトルック』は保守党の主張を支持し続けた[11]詩人社会主義者であったバジル・バンティング英語版は、1927年から、嫌々ながらではあったが、『アウトルック』に評論や記事を寄稿するようになり、その年の10月には、経験がなかったにもかかわらず、同誌の音楽評論担当に任命された。結局、廃刊となった1928年まで同誌にとどまったバンティングは、次のように記した。

『アウトルック』の連中は私に、お前がしらふで書いた原稿はハイブロウ英語版に過ぎると言ったので、ほとんどの原稿は酔っぱらって書いていたし、どれほど馬鹿なものを書くことになるか、分かったもんじゃなかった。The Outlook told me that when I wrote sober I was too highbrow for them, so mostly I wrote drunk, and goodness knows what foolish things I may have written.[12]

バンティングによれば、廃刊に至ったのは、「対峙したくない名誉毀損訴訟 (a libel action that it didn't want to face)」が生じたためであったという[13]

脚注