アイスリンク仙台 | |
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施設情報 | |
旧名称 | 「オレンジワン泉」 「泉DOSCアイスアリーナ」 「コナミスポーツクラブ泉・スケートリンク」 |
愛称 | アイリン |
用途 | アイススケート |
事業主体 | 三井不動産 |
管理運営 | 加藤商会 |
竣工 | 1988年(昭和63年) |
所在地 | 〒981-3116 宮城県仙台市泉区高玉町9-2 |
位置 | 北緯38度19分1.9秒 東経140度53分31.8秒 / 北緯38.317194度 東経140.892167度 / 38.317194; 140.892167 (アイスリンク仙台) 東経140度53分31.8秒 / 北緯38.317194度 東経140.892167度 / 38.317194; 140.892167 (アイスリンク仙台) |
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アイスリンク仙台(アイスリンクせんだい)は、宮城県仙台市泉区の三井不動産SPORTS LINK CITY FUN-TE!(ファンテ!)[※ 1]のスポーツ棟にある、年中24時間営業のスケートリンクである(名称変遷あり)。
同市にある仙台城(青葉城)外堀の五色沼(北緯38度15分25.9秒 東経140度51分24.8秒 / 北緯38.257194度 東経140.856889度 / 38.257194; 140.856889 (五色沼))は日本フィギュアスケート発祥の地とされる[1]オリンピック2大会連続優勝の男子シングルの羽生結弦 と五輪優勝の女子シングルの荒川静香を記念するギャラリーが当リンクに併設されている。
また、2002年ソルトレークシティ五輪4位入賞の本田武史、2006年トリノ五輪で金メダルを獲得した荒川静香も本リンクに通っていた。
五輪2連覇の偉業を達成した羽生結弦が生まれ育った 仙台市 で17歳まで通い練習したリンクである(当リンク2004年閉鎖~2007年再開)(2011年時4ヶ月間営業停止)。また、オリンピック金メダリストを3大会輩出したリンクで当リンク出身者は、2002年ソルトレークシティ五輪4位の本田武史から2018年平昌五輪 金メダル五輪2連覇の羽生結弦まで、5大会連続で入賞者を1人以上輩出している(#沿革参照)。
羽生結弦は、震災後から今、現在も自分の著書2冊の印税の全額をアイスリンク仙台へ多額の寄付をしており、ホームページにて毎年詳細が報告されている。また、当リンクで練習する子供たちの送迎用のバス2台を寄贈している[2]。
2014年4月には羽生結弦 祝賀パレードの剰余金を「宮城県スケート連盟」に寄付。アイスリンク仙台で贈呈式が行われた。連盟は寄付金を活用し、アイスリンク仙台で同日開かれた七夕杯フィギュアスケート競技会のメダルを制作したほか、新人発掘講習会やジュニア世代の大会開催費用に充てる方針である[3][4]。
また2018年4月にも羽生結弦 祝賀パレードの剰余金を全額を寄付。剰余金は市長が12月16日、泉区のアイスリンク仙台で行われる「第1回仙台市長杯フィギュアスケート競技会」で、主催する「宮城県スケート連盟」に寄贈した。選手の技術の向上を目指した合宿や遠征の費用、次世代の選手の発掘にむけた講習会の開催費用に役立ててほしいとし、県スケート連盟は来年以降も大会を続け、県内のスケート選手の強化・育成に力を入れていくとした[5][6]。
当リンクは羽生結弦 ファンにとって「聖地」の1つともなっており、世界中の羽生ファンが次々と「巡礼」している。そのため仙台市および関連団体も、同市の主要な観光地の1つとして宣伝している[7]。
泉中央地区から泉ヶ岳通り(県道泉塩釜線)を東に行くと、(旧)奥州街道・七北田宿と国道4号仙台バイパスとの間に「三井不動産SPORTS LINK CITY FUN-TE!」[※ 1]があり、そのスポーツ棟に当リンクはある。24時間通年滑走可だが、一般向け営業は開始が10:00から12:00までのいずれかで平日/土日休日や季節により異なるものの、終了は一律18:00である[8]。その他の時間帯は、貸し切り営業になっている。
2009年(平成21年)4月30日に勝山スケーティングクラブ(宮城県仙台市)が閉鎖されてから、2015年(平成27年)9月19日に盛岡市アイスリンク(みちのくコカ・コーラボトリングリンク、岩手県盛岡市)が開業するまで、東北地方で唯一の24時間通年滑走可のスケートリンクだったため、特に夏季には東北各地から練習に訪れる選手たちもいた。
当リンクが開設された仙台泉ショッピングセンター(当時)[※ 1]は、バブル景気期にダイエーが泉市(当時)内に建設し、ダイエー新松戸店(現イオンフードスタイル新松戸店)に続いて2例目となるスケートリンク併設のダイエー店舗として1988年(昭和63年)11月1日に開店した(同市を1988年3月1日に編入した仙台市は1989年4月1日に政令指定都市移行)。
五輪 | 金の数 | 金メダリスト |
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2002ソルトレークシティ五輪 | 0 | - |
2006トリノ五輪 | 1 | 荒川静香 |
2010バンクーバー五輪 | 0 | - |
2014ソチ五輪 | 1 | 羽生結弦 |
2018平昌五輪 | 1 | 羽生結弦 |
当リンクに新松戸店から転勤してきた長久保裕コーチ、都築章一郎コーチ、阿部奈々美コーチら指導陣が数々の日本代表級のフィギュアスケート・シングル競技選手を育て、本田武史・荒川静香・鈴木明子・羽生結弦 等を輩出した。なお、1998長野五輪以降、2018平昌五輪開催前までの20年間、冬季五輪における日本人金メダリストは、2大会連続オリンピック2連覇の羽生結弦とトリノオリンピック金メダルの荒川静香の2名。3大会で金メダリストが輩出された。
当リンクの指導陣は東北以外にも知られ、指導を受けにノービス期の鈴木や髙橋大輔らが遠方から通い、愛知県のスケート環境が悪化した頃には門奈裕子コーチに引率されて幼少期の浅田舞・安藤美姫・浅田真央らも夏合宿等で訪れていた[9]。
これらの実績の一方で、周辺の郊外大型商業施設との競争にさらされた核店舗(スーパーマーケット)や入居する専門店が度々入れ替わってショッピングセンターとしての集客力が変化し、スケートリンク自体も経営者が変わったり経営難で閉鎖されたり東日本大震災で被災したりした。
経営難から閉鎖されていた当リンクが再開した際にマスコットキャラクターが作られ、公募で「アイリン」との名称になった。震災による閉鎖からの再開後は、関連グッズの売上が復興支援に用いられている。
当リンク出身の羽生結弦 は、震災後に出した二冊の本の印税2500万円を寄付した[10]。それでバス2台が購入され、当リンクで練習する子供達の送迎に利用されている。尚今現在も、寄付は継続されている[2]。
2017年(平成29年)12月1日、リンク周辺を約2割拡張してリニューアルされ、羽生結弦や荒川静香のギャラリーの新設、両人の助言を取り入れたラウンジ・観覧席・レッスンスタジオの新設と音響設備の更新などがなされた[11][12][13]。また、スポーツ棟内には、フィギュアスケート用品とエッジ研磨の「NICE Figure Skate」[14][※ 2]、フィットネスクラブ「JOYFIT仙台泉」などもあり、選手の練習環境を支えている。
なお現在、撤退した核店舗のスーパーマーケットに替わり、ホームセンターの「カインズ仙台泉店」が進出し、一般社団法人徳洲会の「医療法人仙台徳洲会病院」(2020年10月開院予定)[15]も進出予定となっている。
18:00までの昼間6〜8時間が一般営業、その他の時間帯は貸切営業とし、1日24時間、通年で営業している。
1988年(昭和63年)、ダイエー(東京都)の子会社が運営する「オレンジワン泉」として開場。ダイエー新松戸店(千葉県松戸市)併設の新松戸アイスアリーナから長久保裕[※ 3]がコーチとして転勤してきた[16]。仙台は「日本フィギュアスケート発祥の地」とされ[17]、大正時代には「仙臺出身のスケーターが今日本のフイグアー・スケート界を牛耳つてゐる」ともいわれた[18]。しかし、当リンク開業当時の仙台は、有望選手として及川史弘(リレハンメル五輪フィギュアスケート男子シングル日本代表[※ 4])がいたものの、フィギュアスケートが盛んな都市[※ 5]とは見られていなかった[16]。
開催年 | 出場者 | 種目 | 結果 | ||
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氏名 | 生年月日 | 出身 | |||
1998年 | 田村岳斗 | 1979年05月28日 | 青森県 | 男子S | 17位 |
本田武史 | 1981年03月23日 | 福島県 | 男子S | 15位 | |
荒川静香 | 1981年12月29日 | 宮城県 | 女子S | 13位 | |
荒井万里絵 | 1981年12月07日 | 宮城県 | ペア | 20位 | |
2002年 | 本田武史 | 1981年03月23日 | 福島県 | 男子S | 04位 |
2006年 | 荒川静香 | 1981年12月29日 | 宮城県 | 女子S | 01位金メダル |
2010年 | 鈴木明子 | 1985年03月28日 | 愛知県 | 女子S | 08位 |
2014年 | 羽生結弦 | 1994年12月07日 | 宮城県 | 男子S | 01位金メダル |
鈴木明子 | 1985年03月28日 | 愛知県 | 女子S | 08位 | |
2018年 | 羽生結弦 | 1994年12月07日 | 宮城県 | 男子S | 01位金メダル |
長久保コーチは、貸切料金を自ら負担してまで熱心に選手を指導し、少しずつ成果を出し始めた[16][※ 5]。すると、長久保コーチに指導を受けようと東北地方各地などから選手が集まってきた[16]。
かつて小松島スケートセンター(仙台市)を開設・運営し、長年に渡って宮城県の高校スケート競技において中心的存在であった東北高校が、高校年代では選手の受け入れ先となった。するとアイスホッケー分野でも、後に日本人初のNHLプレイヤーとなった北海道出身の福藤豊(本田武史と同級生)も当リンクに移籍した。
1998年(平成10年)の長野五輪フィギュアスケート競技では日本代表7人中4人が当リンクをホームリンクとし、かつ、4人全員が東北高校に通う高校生選手だったため、マスメディアで話題になった[16]。すると、仙台ではフィギュアスケートブームが起こり、当時仙台在住だった佐野稔が開催した子供スケート教室に通い始めた姉を追って、羽生結弦も当リンクで4歳からスケートを始めた[19][20](1999年には佐野コーチの指導を受けるため、中学2年の髙橋大輔が当リンクに通っていた[21])。
2000年代に入ると親会社のダイエーが経営不振に陥り、様々な再建策が実施された。ダイエーの子会社が運営する「泉DOSCアイスアリーナ」に改称されていた当リンクも再建策の中に含められ、2002年(平成14年)にコナミスポーツ(東京都)に譲渡されて「コナミスポーツクラブ泉・スケートリンク」となった。同年1月に閉鎖された新松戸アイスアリーナから都築章一郎コーチが仙台に移ってきたため指導者は充実し、羽生結弦 は小学2年から5年まで 都築コーチ の指導を受け基礎を学んだ。
2003年(平成15年)には、小学6年(1996年)から夏休みを中心に当リンクに通っていた鈴木明子が愛知県から東北福祉大学に進学してきたが、2004年(平成16年)12月25日に当リンクは閉鎖されてしまった。閉鎖後の仙台都市圏にはスケートリンクが通年滑走可の勝山スケーティングクラブ(仙台市青葉区)、および、冬季営業のウェルサンピアみやぎ泉(黒川郡大和町)の2つになり[22]、長久保コーチとその教え子たちは当初は当リンクに近い後者に活動拠点を移したが、2005年(平成17年)5月からは教え子たちは前者に移り、長久保コーチは埼玉県川越市のリンクに転出した。都築章一郎コーチが横浜に拠点を移した為、羽生結弦は、平日は仙台、週末は新幹線で横浜まで通い、都築コーチの指導を受けた[23]。
2006年(平成18年)、長久保コーチが春から名古屋に転勤することが決まると、鈴木に加え、中村愛音や本郷理華らジュニア世代以下の有望選手数人も名古屋に移住を決めた。この状況は地元マスメディアでも報道されていたが、2月23日にトリノ五輪フィギュアスケート女子シングルで荒川静香が金メダルを獲得すると、記者会見で仙台のアイススケートの指導環境や練習環境の悪化を懸念していると発言し、全国的に知られた。しかし、有望選手らの流出を抑えることは出来ず、4月には名古屋に去っていった。
村井嘉浩宮城県知事は、新たに当リンクの運営を担ってくれる企業探しを県教育庁スポーツ振興専門課の職員に命じ、企業回りの結果、2007年(平成19年)1月になって加藤商会(東京都)が手を挙げた[24]。このとき県と市の補助金支出も決まり、同年3月より「アイスリンク仙台」として営業再開した。当リンクは再開したが、2009年(平成21年)になると4月30日に勝山スケーティングクラブが閉鎖され、公的年金流用問題のあおりを受けたウェルサンピアみやぎ泉は民間に売却され10月3日よりベルサンピアみやぎ泉になる[25]など、仙台の選手育成環境は悪化していった。そのような中でも当リンクの専属スタッフとなった阿部奈々美や荒井万里絵の両コーチら[26]の指導により、羽生結弦などが育った。
2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で当リンクは被災し、営業を休止した。大規模停電も発生し、電気で製氷するリンクの氷は融解が進んだ。停電が解消されても東北電力管内の当地では、津波被害を受けた複数の発電所の復旧に時間がかかり、電力危機に陥った。そのため節電が呼びかけられ、製氷に多くの電力が必要なアイススケート場は営業再開に二の足を踏むことになる。このような中で4月7日、宮城県沖を震源とする余震(最大震度6強)が発生。節電協力により氷を張っていなかった当リンクでは、露出していた冷却管を落下物が直撃して各所で潰れてしまい、営業再開の目途が立たなくなってしまった。
当リンクで練習中に震災に遭遇し、避難生活もした羽生結弦は、各地で開催される復興支援チャリティーアイスショーに多数出演しながら、各地のリンクで練習を続けた。当リンクは様々な復興支援を受けて、7月24日に営業再開に漕ぎ着けた。自身の著書の印税全額を当リンクに寄付してきた羽生結弦は2014年(平成26年)2月14日、ソチ五輪フィギュアスケート男子シングルで金メダルを獲得した。帰国後の会見で羽生は、報奨金を被災地支援やリンクに寄付すると話し[27]、4月26日に仙台市都心部の東二番丁通りで実施された凱旋パレードの出発式において、報奨金600万円を県と市に寄付した[28]。さらに羽生は、震災後に出した二冊の本の印税2500万円を当リンクに寄付し、それで購入されたバス2台が当リンクで練習する子供達の送迎に利用されている[2]。
節内の全座標を示した地図 - OSM |
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節内の全座標を出力 - KML |
宮城県内の屋内アイススケート場は現在、冬季営業のベルサンピアみやぎ泉(大和町、60m×30m)とプレナミヤギ(石巻市、外周120m[88])、通年営業のアイスリンク仙台(56m×26m)の3ヶ所ある。
当リンクは狭いため、ショートトラックスピードスケートの練習には不向きであり[89]、リンクが広いベルサンピアを主に使用している。県内のアイスホッケーリーグは「宮城県アイスホッケーリーグ」(宮城県アイスホッケー連盟主催)および「宮城県アイスホッケーエキサイティングリーグ」(MIEリーグ)の2つがあるが、練習は当リンクでも行うものの、試合はリンクが広く、観客席が152席あるベルサンピアで開催している。県内にはスピードスケート用の400mトラックが無いため、スピードスケートの選手は他県に出向いて練習している[89]。すなわち、フィギュアスケートはリンクが狭い当リンク、フィギュアスケート以外はリンクが広いベルサンピア等のような棲み分けが主に冬季に起きているが、当リンクは東北地方で2つしかない24時間、通年滑走可であるため、冬季以外は各競技で練習時間の奪い合いが発生している[89]。
以下は、仙台都市圏にこれまで存在し、かつ、管理されていた主なスケートリンクの一覧である。常設のリンクは、名取市にあった「仙台スポーツセンター」、および、大和町にある「ベルサンピアみやぎ泉」以外全て、現在の仙台市内に所在した。「名称」には、同じ施設が過去につけていた名称も列挙する。営業時期が「冬季」となっているものは、夏季以外の秋季・冬季・春季に営業するものから、冬季のみ営業するものまである。
かつては結氷した湖沼・河川が、管理の有る無しに関わらずアイススケートの遊戯の場として利用されており、宮城県庁の敷地内にあった2つの池等も結氷期に子供がアイススケートを楽しんでいた。また、当地でモータリゼーションが発達する以前の昭和30年代までは、市内各所の凍結した道路上で子供たちがアイススケートをしていた[90]。東京五輪が開催された1964年(昭和39年)10月、仙台市に東北地方で初めて人工氷を用いた屋内スケートリンク(仙台スケートセンター)が開場すると、数年で続々と屋内リンクが開場した。屋内リンクは冬季営業だったため、夏季の集客用にプール等を併設したり、通年で集客できるボウリング場等を併設する例がみられた。1978年(昭和53年)には仙台初の通年営業の屋内リンク(勝山スケーティングクラブ)が開場した。
1931年~1960年および1981年~2010年の各々の30年平均値を比較すると、冬季の各月の日最高気温は1℃未満の上昇に対し、日最低気温は2℃近く上昇し、ヒートアイランド現象が見られる[91]。また、仙台の冬(前年12月~2月)は長期変化傾向では100年で3.0℃上昇している[92]。このため当地では、アイススケートを実施可能な湖沼・河川の結氷は見られなくなり、一時的に開設されるリンクでは、屋外でも人工氷を用いたり、アクリル樹脂を用いたりしている。
なお、五色沼は「日本フィギュアスケート発祥の地」とされる[17]。
このほか、ISUグランプリシリーズのNHK杯が、2007年(平成19年)に仙台市体育館(仙台市)、2012年(平成24年)にセキスイハイムスーパーアリーナ(利府町)で開催されている。また、ゼビオアリーナ仙台(仙台市)はアイスホッケーの試合開催を想定して建設されており、2014年(平成26年)には羽生結弦の金メダル凱旋アイスショーが開催された[113]。