尾頭橋 | |
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北緯35度8分37.92秒 東経136度53分23.93秒 / 北緯35.1438667度 東経136.8899806度 / 35.1438667; 136.8899806 | |
国 | ![]() |
都道府県 | ![]() |
市町村 | ![]() |
区 | 中川区 |
町名制定[1] | 1981年(昭和56年)9月6日 |
人口 (2019年(平成31年)1月1日現在)[WEB 1] | |
• 合計 | 4,498人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 | 454-0012[WEB 2] |
市外局番 | 052 (名古屋MA)[WEB 3] |
ナンバープレート | 名古屋 |
尾頭橋(おとうばし)は、愛知県名古屋市中川区にある町名。現行行政地名は尾頭橋一丁目から尾頭橋四丁目。郵便番号は454-0012[WEB 2](集配局:中川郵便局[WEB 4])。住居表示実施済み[WEB 5]。
町名の由来となった堀川に架かる橋についても項目内で説明する。
名古屋市中川区の北東部に位置し、南は八熊、北は山王、西は露橋、東は尾頭橋通・中区正木に接する。
2019年(平成31年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
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尾頭橋一丁目 | 520世帯 | 973人 |
尾頭橋二丁目 | 410世帯 | 731人 |
尾頭橋三丁目 | 1,135世帯 | 2,027人 |
尾頭橋四丁目 | 451世帯 | 767人 |
計 | 2,516世帯 | 4,498人 |
国勢調査による人口および世帯数の推移。
1995年(平成7年)[WEB 6] | 1,801世帯 4,425人 | |
2000年(平成12年)[WEB 7] | 1,885世帯 4,232人 | |
2005年(平成17年)[WEB 8] | 1,985世帯 4,209人 | |
2010年(平成22年)[WEB 9] | 2,261世帯 4,581人 | |
2015年(平成27年)[WEB 10] | 2,411世帯 4,565人 |
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる[WEB 11]。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる[WEB 12]。
丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 | 高等学校 |
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尾頭橋一丁目 | 全域 | 名古屋市立八熊小学校 | 名古屋市立山王中学校 | 尾張学区 |
尾頭橋二丁目 | 全域 | |||
尾頭橋三丁目 | 全域 | |||
尾頭橋四丁目 | 全域 |
地名としての尾頭橋の由来となったのは、堀川に架かる同名の橋である。橋としての「尾頭橋」の名は堀川を挟んだ対岸の地名である「尾頭」に由来する。尾頭という地名の由来については、尾頭町の町名由来の項目に譲る。
尾頭橋は佐屋街道の橋として架けられた。佐屋街道は1634年(寛永11年)、江戸幕府3代将軍徳川家光通過の折に本格的に整備された街道で、東海道唯一の海路である七里の渡しを避ける宮宿から桑名宿を結ぶ、いわばバイパスにあたる脇往還である[2]。当初は下流の亀屋河渡(現:瓶屋橋付近)を通っていたが、寛文6年(1666年)幕府の通中奉行が管轄することとなったとき、尾頭橋が架けられルートが変わった[3]。佐屋街道が尾頭新道、尾頭橋が新橋と呼ばれるのもこのルート変更によるものである[2]。また、新橋と呼ばれるのは、度々架けかえられたことからとする説もある[4]。また、江戸時代に書かれた『府志』ではルート変更で新たに架けられたことで新橋と呼ばれるようになった説に対しては疑問を呈している[5]。
江戸時代の尾頭橋は『宿付大概帳』によれば、高欄付きの板橋で長さ17間、幅3間、橋杭は三本立四組の橋だった[2]。当時、堀川に架かる橋は7つに限られており、堀川七橋[注釈 1]と総称されていた[6]。尾頭橋はその最下流に位置していた[2]。
1738年(元文3年)には東側の橋のたもとに堀川七橋の供養と通行の安全を願い、魚屋伝吉なる者が「七はしくやう」塔が建立した[7]。この塔に関しては、洪水により度々被害を出すことに心を痛めた通りがかりの僧が人柱となり、被害が収まったとする伝説があり、その僧を祀る意味もあったとされる[7]。この供養塔はのちに熱田区花町の畑中地蔵境内地に移されている[7]。
佐屋街道は江戸時代、多くの大名が参勤交代の際に通行したするとともに、多くの人々が伊勢詣りや津島詣でに利用し、シーボルトや松尾芭蕉も通行したといわれる[8]。
なお、尾頭橋地区は江戸時代には愛知郡古渡村に属していた。尾頭橋近辺には文化・文政期には商家があり、中川区内では早くから発展した地域とされている[9]。
大正期の尾頭橋には、八幡園と呼ばれる花街が広がっていた。八幡園は御茶所から発生した繁華街であり、江戸時代には佐屋街道の客を目当てにしていたという[9]。料理屋兼芸妓置屋が公許されたのは、1917年(大正6年)のことである[9]。
その1917年(大正6年)頃には、芸妓置場が10軒、芸妓が13人いたが、1941年(昭和16年)には、芸妓置場が30軒、芸妓が153人、1943年(昭和18年)には芸妓置場が113軒、芸妓が503人にものぼったとされる[10]。
1943年(昭和18年)9月頃からは遊廓に形を変えながらも残っていたが、1945年(昭和20年)の名古屋空襲により八幡園は全焼した[11][注釈 2]。
戦後の八幡園は赤線に転向し、遊廓は68軒あり、324人もの女性がいたとされる[11]。
昭和20年代後半以降の八幡園は衰退し[13]、1952年(昭和27年)には尾頭橋公園が開園した[14]。
八幡園では1957年(昭和32年)の売春防止法施行後、旅館に転業した遊廓も多かった[15]。
商店街の入口には1986年(昭和61年)春に地区のシンボルであるアーチが建った[13]。2010年(平成22年)12月にはアーチがリニューアルされた[新聞 1]。
尾頭橋地区には佐屋街道を前身とする東西の目抜き通りと南北に江川線が通過する。これらは名古屋市復興計画により広幅員の道路として整備されることになったもので、南北の江川線は戦災復興院告示第45号の中で復興都市計画街路(幹線)の「広路第7号線江川線」(西区庄内川橋南詰より港区港本町6丁目の延長13,121メートル幅員50メートル)として1946年(昭和21年)6月27日に[18]、東西は戦災復興院告示第46号の中で復興都市計画街路(補助幹線)の「2等大路第1類第4号線秋竹線」(中川区五月南通3丁目より熱田区金山町1丁目の延長2.955メートル、幅員20メートル)としてそれぞれ計画決定されている[19]。
また、堀川の古渡橋を起点にし、江川沿いに、ばんたね病院東側を通り、南方の熱田新田方面に向かう百曲街道も通っていた[20]。前述の江川線は上流は江川に沿った通りであったが、当地北側あたりでたもとを分かっていたのである[20]。
尾頭橋は堀川の古渡橋(上流)と住吉橋(下流)の間に位置する橋である[21]。
堀川にかかる堀川七橋[注釈 1]で一番新しく、1665年(寛文5年)に架けられたので「新橋」とも呼ばれる[22]。また、由来については前述の通り、度々架け替えられたために新橋と呼ばれる説もある[4]。
19世紀半ばに編纂された『宿村大概帳』によると、この頃の尾頭橋は高欄付きの板橋であり、長さは17間・幅は3間だった[2]。
1665年(寛文5年)の架橋以来何度か架け替えられており、1856年(安政3年)、1937年(昭和12年)[注釈 3]の改築の記録が残る[24]。また、明治にも改築されたが、年月は不詳[25]。1969年(昭和44年)には交通量の増大に対応し、橋の両側に歩行者専用橋が増築されたという[24]。当時の橋は長さ31.3メートル、幅10.5メートル[24]。
現在の尾頭橋は長さ41.8メートル、幅19.2メートルであり、欄干は波型で、由来解説板や絵のパネルなどがはめ込まれ、舗装は自然石、照明はアンティーク調である[新聞 3]。
尾頭橋地区に鉄道ができたのは、1912年(明治45年)5月6日に南北方向に名古屋電気鉄道江川線が開通したことによる[26]。このときの開業区間は、尾頭橋地区北方に位置する洲崎橋電停から南方の船方電停の間であり、同時に尾頭橋電停も設置された[26]。名古屋電気鉄道の名古屋市内路線については1922年(大正11年)8月1日に名古屋市に買収され[27]、また江川線も線路名称を分割し、路線の名称が名古屋市電下江川線となっている。
1913年(大正2年)12月20日、市電尾頭橋電停のすぐ脇の佐屋街道上に私鉄下之一色電車軌道が愛知郡下之一色町とを結ぶ下之一色線の新尾頭停留所を開業させた[28]。こちらも1937年(昭和12年)に名古屋市に買収され、名古屋市電下之一色線となっている[29]。この開業により交通の要衝となり、急速に発展を遂げたとされる[24]。
下之一色の行商人は丸1日掛けて徒歩で名古屋市街地に来ては商いをしていたが、下之一色電車軌道はこの需要を狙ったのであった[30]。商いのための魚は竹カゴに入れて運んでいたが、この竹カゴを運ぶ専用の車両も連結されていたという[30]。
1961年(昭和36年)4月当時尾頭橋電停には以下の常時系統が運行されていた[31]。
また、随時系統として以下の系統も存在した[32]。
市電は戦後、全廃の方針が示され、下之一色線は1969年(昭和44年)2月20日、下江川線の尾頭橋電停は1971年(昭和46年)4月1日に同線柳橋-八熊通間の廃止に伴い営業を終了した[33]。
この後、しばらく鉄道によるアクセスは消滅していたが、地区を通過するだけだったJR東海道本線に、1995年(平成7年)に尾頭橋駅(ウインズ名古屋前)が開業している[34]。
1930年(昭和5年)12月、浄心から柳橋を経由し尾頭橋に至る市営バス路線が開通している[35]。その後、1931年(昭和6年)度に尾頭から石川橋に至る路線がさらに開業している[36]。
『市営50年史』(1972年)は、名鉄バスセンター設置に伴って名鉄バス[注釈 4]が尾頭橋停留所などを廃止したとの記述がある[37]。
2019年(令和元年)5月現在、以下のバス停が置かれている。
尾頭橋商店街の歴史は明治にさかのぼり、農家が野菜市を開いたのが商店街としての始まりである[48]。1945年(昭和20年)の名古屋大空襲で焼失したが、戦後の1946年(昭和21年)に映画館の尾頭劇場が開館したことを機に商店街の再建が進み、1949年(昭和24年)に中日球場(後のナゴヤ球場)が完成したことでにぎわいを取り戻した[48]。
1987年(昭和62年)時点の尾頭橋商店街には、大宝会館(後のタイホウ尾頭橋店)、モナコ、パチンコ正ちゃんという3店舗のパチンコ店があった[新聞 8]。1995年(平成7年)3月16日に開業したJR東海道本線尾頭橋駅から徒歩約5分である。1995年4月15日・16日には尾頭橋駅の開業を記念して、第1回おとうばし商人まつりが開催された[新聞 9]。2007年(平成19年)には自動体外式除細動器(AED)の設置費用が国や自治体の補助対象となった[新聞 10]。同年に全国で補助対象に認定された140台のうち、名古屋市商店街振興組合連合会が70台を設置しており、他の商店街同様に尾頭橋商店街にもAEDが設置された[新聞 10]。2011年(平成23年)には2灯式の街路灯54本の照明をLED化し、塗りなおしも行ってリニューアルした[新聞 1]。2012年(平成24年)には1灯式の街路灯20本もLED化した[新聞 1]。また、2014年(平成26年)には防犯カメラを商店街に10台設置し[新聞 11]、防犯面や検挙に効果が上がっているとされる[新聞 1]。商店街のすぐ近くに救急設備の整った藤田医科大学ばんたね病院があることから、2013年(平成25年)にはAEDが撤去されている[新聞 1]。
毎年7月第4土曜日・日曜日には[新聞 1]、中川金魚まつり実行委員会が中川金魚まつりを開催している。福祉会館前から尾頭橋公園までパレードが行われる。
戦後すぐの尾頭橋には遊廓の八幡園があり、廓祭りという祭礼が開催されていた[新聞 1]。1953年(昭和28年)には地元有志や商店街主らが廓祭りを引き継いで、地域活性化のために祭礼を始めた[新聞 1]。1975年(昭和50年)頃には金魚みこしが初登場し、その後一度はみこしの巡行が中断していたものの、名古屋市立山王中学校の生徒らが担ぎ手になって復活した[新聞 1]。2000年(平成12年)頃には商店街の祭礼から地域の祭礼に変えるべく、主催者が中川東部商店街連合会から中川金魚まつり実行委員会に変更された[新聞 1]。2012年(平成24年)には鉄工所の経営者が実行委員長となり、商店街主以外から初めて実行委員長が誕生した[新聞 1]。
金魚まつりの名称について、『中日新聞』(1993年)は金魚は俗に遊女のことをいう言葉であり、そのことにちなむとしている[新聞 15]。地域活性化のための祭礼にランチュウが展示されたことに因むとする説もある[新聞 1]。昭和30年代にはホタルを配布する「蛍まつり」が行われており、金魚を配布するようになったことから同名になったという経緯があるともいう[56]。
参考文献は著者・編者名五十音順に配列。ただし、同一著者名は年代順に配列。
あ行 | |
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か行 | |
さ行 | |
た行 | |
な行 | |
は行 | |
ま行 | |
や行 | |
わ行 | |
富田支所管内 | |
註 |
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旧町名 | |
旧町村 | |
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