Ron Meadows ロン・メドウズ | |
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メドウズ(表彰台中央の黒い服の人物。2014年中国グランプリ) | |
生誕 | (1964-02-07) 1964年2月7日(60歳) イギリス・マージーサイドリヴァプール |
国籍 | イギリス |
職業 | チームマネージャー(フォーミュラ1) |
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ロナルド・マシュー・メドウズ(Ronald Matthew Meadows、1964年2月7日 - )、通称ロン・メドウズ(Ron Meadows)は、イギリスの自動車技術者であり、自動車レースのフォーミュラ1(F1)のチームマネージャー/スポーティングディレクターとして知られる。
F1においては1999年デビューのブリティッシュ・アメリカン・レーシングに設立準備段階から関わり、その後、数度に渡って改称された同チーム(2010年以降はメルセデス)に20年以上に渡って所属し、一貫してチームマネージャー職を務めている。
メドウズはリヴァプール出身で、その家族はモータースポーツに関心を持っていなかったが、12歳の時に友人に誘われ同市にほど近いオウルトン・パークを訪れ、そこで見たスーパーカート(英語版)のレースに魅了され、レースに興味を持つようになった[1]。その後、メドウズは同サーキットに毎週のように通うようになり、14歳になる頃には様々なチームの手伝いをするようになった[1]。
そうしている中でトム・ウォーキンショーと知り合い、1980年(16歳頃)にトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)にメカニックとして加入した[1]。TWRではチームに帯同し、イギリスツーリングカー選手権(BTCC)やスパ24時間レースなどツーリングカーレースを中心にメカニックとしての経験を積む[1]。
TWRは1980年に加入した当初は40人程度のスタッフがいるだけの小さな組織だったが、1983年には700人ほどにまで増え、メドウズはこの年にTWRを辞め、当時フォーミュラ3の各国選手権に参戦していたデビッド・プライス・レーシングに加入した[1]。同チームで、メドウズはフランスF3選手権でポール・ベルモンドの担当メカニックをするなどした。
1987年にメドウズは国際F3000で戦っていたミドルブリッジ・レーシングにチーフメカニックとして加入し、1989年にチームマネージャーとなり、チームの運営を手掛けるようになる[2]。ミドルブリッジ・レーシングが国際F3000から撤退したことに伴い、1991年から1994年にかけては同じく国際F3000の新興チームであるヴォルテックス・モータースポーツ(ポーランド語版)でチームマネージャー、共同チーム代表を務めた[3][2]。
ヴォルテックスもまたチームの活動を停止し、それを機にメドウズは1995年にアメリカ合衆国に移ってインディカー(CART)のウォーカー・レーシング(英語版)に加入し、やはりチームマネージャーを務めた[2][1]。
その後、メドウズは家族の希望によりウォーカーレーシングを去ってヨーロッパに戻ったが[4]、そこで、縁の深いレイナードのエイドリアン・レイナードから勧誘の声がかかる[注釈 1]。それは当時レイナードらが進めていたF1参戦計画のマネージャーとしての仕事で、メドウズは「世界中を旅して回らなくて良いのなら」という条件でその職を引き受けて1997年にチームに加入した[5][1]。当初は「ファクトリーマネージャー」として、本拠地となるファクトリーの建設であるとか、スタッフの雇用といった新チームの立ち上げに関わる一連の業務を手掛けることとなる[1]。メドウズの管理の下、イギリス・ブラックリー(英語版)におけるファクトリー建設は1998年2月に始まり、同年11月に完成した[5][注釈 2]。
そうして誕生したブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR / B・A・R)は1999年にF1デビューを果たしたが、初年度は優勝を豪語しておきながら選手権で1ポイントも獲得できずに終わるという散々な結果となる。翌シーズンの開幕直後にそれまでチームマネージャーを務めていたイアン・シングが辞任し、メドウズはその後任として(結局)チームマネージャーを引き受けることとなった[2]。
メドウズは同チームが2006年にホンダとなってからもチームに留まり、2007年にスポーティングディレクターに任命された[6]。これは同年半ばに退任したジル・ド・フェランの役職名を引き継いだもので[6]、メドウズのチームマネージャーとしての職務そのものに変更はない。
同チームがブラウンGP、メルセデスとなった後もスポーティングディレクターとして留まり、メドウズは20年以上に渡って一貫してレース現場におけるチーム運営の責任者を務めている[5]。レース中、チームがFIAのスポーティングレギュレーションに則っているかを確認することであるとか、レースにおけるエンジニアのトップであるアンドリュー・ショブリンと連携してピットストップのタイミングにタイヤを準備させ、ドライバーをピットインさせるよう指示することなどはメドウズの役割となる[7]。
メドウズは自分はキャリア初期はF1で働きたいと強く考えていたタイプではなかったと語っており[8]、実際、レイナードに誘われる以前はF1以外のカテゴリーでキャリアを重ねている。
メルセデスチームの重役としてチームとも帯同していたニキ・ラウダは、チーム内でもメドウズと特に親しく接していた[1]。そのため、2019年5月20日にラウダが死去し、その数日後に開催されたモナコグランプリでメルセデスチームのルイス・ハミルトンが優勝してその勝利をラウダに捧げた際、チーム代表のトト・ヴォルフの配慮により、メドウズはチームを代表して表彰台に立ち、優勝コンストラクターへのトロフィーを受け取った[1]。
2010年 - 現在 ワークスチーム |
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1994年 - 現在 エンジン/PU供給 |
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関連項目 | |||||||||||||||||
※役職等は2024年2月時点。 ※太字のドライバーはメルセデスにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。 |
首脳 | |||||||
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チーム関係者 |
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ドライバー |
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車両 | |||||||
スポンサー |
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関連項目 |
第五期 2026年 - パワーユニット供給 |
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関連項目 | ||||||||||||||||||||||||||
※ 第2期・第3期・第4期の「主な関係者」は、基本的に各部門の「長(ディレクター)」以上にあたる人物のみに絞って記載(多数に及ぶため)。 ※ 「関連組織」の( )には略称、[ ]には関連する下部組織を記載。 ※1 ホンダ本社の役職者と本田技術研究所の人物を除く(兼務者が多数に及ぶため)。 ※2 ホンダ所有のサーキット。第1期と第2期に主要なテストコースとして用いられた。 ※3 ホンダ所有の展示施設。第1期から第4期の車両を所蔵(基本的に動態保存)している。 |
主な関係者※ |
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ドライバー |
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F1車両 | |||||||||
主なスポンサー | |||||||||
関連組織 |
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※出身組織(本来の所属組織)別に分類。 |