ビリー・ワイルダー (Billy Wilder 、1906年 6月22日 - 2002年 3月27日 )は、アメリカ合衆国 の映画監督 、脚本家 、プロデューサー 。50年以上映画に関わり、60本もの作品に携わった。本名はSamuel Wilder (ドイツ語 読みでザムエル・ヴィルダー)。
生涯 (名前が知られる以前の逸話は当人の談話以外のものが少なく、言及に注意が必要である)
青年時代 鉄道駅構内のカフェ・レストランを経営するユダヤ系 のマックス・ヴィルダー(Max Wilder)を父に、おなじくユダヤ系のオイゲーニア・バルディンガー(Eugenia Baldinger)を母に、オーストリア=ハンガリー帝国 領ガリツィア 、ベスキド地方スハ・ベスキツカ(Sucha Beskidzka 、ドイツ語ズーハ、現在ポーランド のマウォポルスカ県 )で生まれた。2人兄弟の次男坊だった。アメリカ贔屓でニューヨーク にもしばらく滞在していたことのある母親から西部劇の主人公バッファロー・ビル やワイルド・ビル・ヒコック から取ってビリー とあだ名をつけられる。
父親はビリーを法律家にさせたかったが、試験には受かったものの大学には進学せず、新聞記者としていろいろなスポーツや映画関係の記事を書く。1926年 、ウィーン にコンサートツアーのために来ていたジャズ・ミュージシャンのポール・ホワイトマンのインタビューがきっかけで仲良くなり、今後もコンサート評を書いて欲しいという彼の誘いで次のコンサート開催地であるドイツ のベルリン に移り住んだワイルダーは、ベルリンの新聞社に入社後、連載記事のためにダンス・ホールのジゴロに扮して、その経験を記事にして生活していたという。
脚本家デビュー 21歳の時、映画の脚本家として仕事を始めたが、当初は家賃も払えず、野宿したり友達の家に転がり込んだりなど極貧生活だったという。1928年 に父親がベルリンで腸閉塞 で亡くなる。ニューヨークで事業に成功したビリーの兄に会うためのアメリカ旅行からの帰路で、息子のビリーを訪ねた折の出来事であった。
1929年 、『悪魔の記者』ではじめて名前がクレジットされる。また同年、当時はまだアマチュアだったロバート・シオドマク 監督の『日曜日の人々』に参加。スタッフのほとんどが映画製作未経験者だったものの、観客にも批評家にも賞賛され、注目を集める。ちなみに本作の撮影助手をつとめていたのが、のちにワイルダーと並ぶ名監督となったフレッド・ジンネマン だった。
『日曜日の人々』の成功で、ワイルダーはドイツ最高の映画会社ウーファ へ招かれ、『少年探偵団』(1931年 )や『街の子スカンボロ』(1932年 )といった脚本を執筆、いずれもヒット作となった。
しかし、1933年 、アドルフ・ヒトラー 率いるナチス が台頭してきたため、ユダヤ系のワイルダーはフランス へ亡命。亡命のきっかけはナチスによる共産党の仕業に見せかけたドイツ国会議事堂放火事件 で、まだ議事堂が燃えている間にワイルダーは急いで荷造りし、その当時交際していた女性と共にドイツを発ったという。
同じくドイツ移住組の俳優ピーター・ローレ や、作曲家のフランツ・ワックスマン らとパリ市内のホテル・アンソーニアで共同生活をしながら、労働許可証がないので仕方なく偽名で脚本を執筆していた。またこの時、ダニエル・ダリュー 主演の『悪い種子』で監督デビュー、1934年 にはコロムビア映画 の製作者でドイツ時代の友人だったヨーエ・マイの招きで、まだワイルダーは英語が喋れなかったものの、ワックスマンらと共にアメリカ合衆国 に渡った。
アメリカ亡命 ニューヨーク行きの船に乗船して渡米した直後のワイルダーは、ロングアイランド に住んでいた兄の家を間借りし、ビザが切れるまでの間、コロンビア映画と6ヶ月の契約をする。その後はハリウッド の高級ホテル「シャトー・マーモント」の一室でピーター・ローレと共同生活しながら、自作の脚本を映画会社に売り込むが鳴かず飛ばずの状態だった。
1935年 に脚本を売って稼いだ資金で一旦ウィーンに残してきた母親に会いに行き、自身と同じくナチスの受難を避けるためにアメリカに移住するよう説得したが、当時再婚していた母は断わり、結局これが母親との永遠の別れとなる。ビリーがアメリカ帰国後、母親と祖母、そして母親の再婚相手はアウシュヴィッツ のユダヤ人 強制収容所 送りとなり、そこで死亡したといわれる。第二次世界大戦 後、ドイツに来たビリーは赤十字 を通じて母を捜すも結局は見つからず、目撃者の話から、おそらくアウシュヴィッツで殺されたのであろうということしかわからなかった(後の調査で彼女らは別々の収容所に送られ、そこで殺されたことが判明した)[1] 。
長い下積み生活の後、1937年 にパラマウント映画 に『シャンペン・ワルツ』の脚本を売り込みに成功。そしてパラマウント社の脚本部部長のマニー・ウルフの引き合わせで脚本家チャールズ・ブラケットと出会い、その足で映画監督でのちにワイルダーが自分の師と仰ぐエルンスト・ルビッチ のところへ二人で報告に向い、その場で『青髭八人目の妻 』の仕事を貰う。
ブラケットと初めて共同執筆した脚本『青髭八人目の妻』がルビッチに採用されてからは、その後ハリウッド でのワイルダー=ブラケットのコンビは共同脚本で次々と『ニノチカ 』(エルンスト・ルビッチ 監督)、『ミッドナイト』(ミッチェル・ライゼン監督)、『教授と美女 』(ハワード・ホークス 監督)など次々とパラマウント調の傑作コメディを世に送り出し、ハリウッド一の名脚本家コンビと謳われる。
本格的な映画監督デビュー 映画監督に転向したきっかけは『ホールド・バック・ザ・ドーン』で以前からワイルダーとは険悪な仲だったミッチェル・ライゼン監督が主役のシャルル・ボワイエ の意見で勝手に脚本を変更したことであった。これに憤慨したワイルダーは自分の脚本は自分で守らなければと思い立ち、またその当時、同じパラマウント社の脚本家だったプレストン・スタージェス が監督に転身して見事に成功していることに影響を受け、ワイルダーは1942年 、『少佐と少女 』でハリウッドの映画監督としてデビュー。フランスで『悪い種子』で監督デビューしてから8年後のことだった。
記念すべきハリウッド監督デビュー作の『少佐と少女』はデビュー作ながら、当時の大スターでアカデミー主演女優賞 を受賞したばかりのジンジャー・ロジャース を幸運にも起用でき、まずまずの成功作となる。これ以降、脚本はブラケットとの共同で、監督はワイルダーが、製作をブラケットが担当する形で次々と作品を世に送り出す。続いてB級戦争アクション映画『熱砂の秘密』を監督、この作品の出演を機に憧れの映画監督のひとりだったエリッヒ・フォン・シュトロハイム と出会う。
そして1944年 、ワイルダーの最初の大ヒット作品でフィルム・ノワールの古典的名作とされる『深夜の告白 』を監督する。本作は美人の妻が夫を保険金を掛けて愛人と共謀して殺害するサスペンス映画の先駆けとなり、興業的にヒットしただけではなくワイルダーもアカデミー監督賞 と脚本賞 にノミネートされる。ちなみに本作の原作に関して、ブラケットは気に入らず、仕方なくワイルダーひとりで映画化することになり、共同脚本にはハードボイルドな作風で人気があった作家のレイモンド・チャンドラー が担当することになった。
1945年 、『失われた週末 』はアルコール依存症 の恐怖を描いた最初のドラマで、当時としてはその斬新な内容から試写会は失敗し、意気消沈したワイルダーは軍の要請から、ドイツで映画に関する規則や規定作りの仕事に携わるためハリウッドを離れる。現地では軍務について、ナチスの強制収容所の様子を記録したドキュメンタリー映画 の製作も手掛ける。帰国後、失敗作と思っていた『失われた週末』がアカデミー作品賞 をはじめ、ワイルダー自身もアカデミー監督賞とアカデミー脚本賞を受賞、ワイルダーとしては初の受賞作となる。
受賞後は1948年 にワイルダー唯一のミュージカル 『皇帝円舞曲 』、1949年 に敗戦後のドイツを舞台にした『異国の出来事 』を監督したのち、ハリウッド内幕映画の大傑作となる『サンセット大通り 』を監督。往年の名女優グロリア・スワンソン 他、実際のサイレント時代のスターや映画監督を起用したことで話題となり、興業的にも批評的にも大成功し、再び作品賞や監督賞などにノミネートされるが、同じ年にニューヨークの演劇界の裏側を描いたジョセフ・L・マンキーウィッツ 監督の『イヴの総て 』に敗れ、アカデミー脚本賞 のみの受賞となった。またハリウッドの暗部を描いた作品であるだけにMGM社長のルイス・B・メイヤー はじめ、スタジオ関係者の中にはワイルダーを疎ましく思っていた人間もいた。
コンビ解消後 『サンセット大通り』は大成功するも、本作を最後に10年以上コンビを組んでいたブラケットと離れる。元々二人は脚本執筆のために激論を飛ばして、時には取っ組み合いの喧嘩をしたこともあったというが、別れた直接の原因は私生活に関する些細な言い争いがきっかけだったという。ワイルダーはのちにこのコンビ別れの原因について「マッチの表面が擦り切れただけだ」というようなコメントをしている。ブラケットと別れたワイルダーが最初に手掛けた映画『地獄の英雄』では、マスコミ の腐敗した部分を描き出すが、その過激な内容から公開直後は不入りで、長らく失敗作の烙印を押されていたが、しかし近年になって再評価が高まり、現在に至ってはアメリカ本国ではワイルダーの代表作の一つとなっている。
自信作だった『地獄の英雄』が失敗したワイルダーは一転して1953年 に捕虜収容所映画の傑作『第十七捕虜収容所 』、1954年 に『ローマの休日』に続いてオードリー・ヘプバーン が出演したロマンティック・コメディ 『麗しのサブリナ 』、1955年 にマリリン・モンロー の地下鉄の通風孔のシーンで有名な『七年目の浮気 』と次々と映画史に残る傑作を世に送り出す。1953年と1954年に連続して監督賞にノミネートされるが、受賞には至らなかった。1957年 には実際にワイルダーの親友だったチャールズ・リンドバーグ の自伝を映画化した『翼よ! あれが巴里の灯だ 』(撮影は1955年スタジオ内で覆面試写会も同年ハンフリー・ボガート 、ゲーリー・クーパー が出席している。)を監督する。
ブラケットとコンビを解消して以来、さまざまな脚本家と組むも、どれも長続きしなかったが1957年に『昼下りの情事 』で初めて組んだI・A・L・ダイアモンド の才能の素晴らしさに驚嘆したワイルダーは、それ以降、ダイアモンドとコンビを組んで第二のワイルダー黄金時代を築くことになる。1958年 にはアガサ・クリスティー 原作の法廷映画『情婦 』を監督、その誰もが予想つかないトリッキーな展開から本作は大ヒットし、クリスティーも自分の原作で映画化された作品の中で本作が一番のお気に入りだったという。
1959年 にのちワイルダー映画の顔となるジャック・レモン を初めて起用した『お熱いのがお好き 』、1960年 に『アパートの鍵貸します 』とコメディー映画史に残る作品を続けざまに監督し、特に『アパートの鍵貸します』ではアカデミー作品賞 、アカデミー監督賞 、アカデミー脚本賞 を受賞した。1本の映画で一人の人物が3つのオスカー を受賞したのは、この時が史上初である。また『お熱いのがお好き』は2000年 にアメリカン・フィルム・インスティチュート の笑える映画ベスト100 の第1位に選ばれる。
キャリア後年 この2作でワイルダーは艶笑喜劇の神様として敬われ、続いて1961年 に、東西に分断された冷戦時代のドイツを舞台にしたハイテンション・コメディ『ワン・ツー・スリー 』、1963年 、『アパートの鍵貸します』のキャストを再び起用した『あなただけ今晩は 』と傑作を発表するが、いずれも『アパートの鍵貸します』を超える成功作とはならなかった。また1964年 の『ねぇ!キスしてよ 』はその不道徳な内容からカトリック教会 から猛烈な抗議を受け、映画も興業的に惨敗してしまう。
1966年 に人情コメディ『恋人よ帰れ!我が胸に 』、1970年 に『シャーロック・ホームズの冒険 』、1972年 の『お熱い夜をあなたに』、1974年 にワイルダー唯一のリメイク映画である『フロント・ページ 』と年齢が60代を越えても水準以上の作品を次々と世に送り出したワイルダーだが、1981年 の『バディ・バディ』を最後に映画を作ることはなくなった。しかし、本人は映画監督を完全に引退するつもりは無く、ユナイテッド・アーティスツ の映画企画の審査係を務めながら次なる新作の構想を練っていたが、1978年 の『悲愁 』の撮影中から体調が芳しくなかったダイアモンドが1988年 に死去したことで完全に引退する。
しかし、引退後もワイルダーは、1985年 にアメリカ監督組合からD・W・グリフィス 賞を、1986年 にアメリカン・フィルム・インスティチュートから功労賞を、1988年 にアカデミー授賞式でアービング・G・タルバーグ賞 など、その生涯における功績を讃えられ、その他、多くの名誉賞を受賞した。また1995年 には全米映画評論家協会から自分の名前を冠した第1回ビリー・ワイルダー賞を受賞する。
ワイルダーの墓 90歳を越えてもマスコミの前に元気な姿を見せ、2000年 には『ザ・エージェント 』の監督を務めたキャメロン・クロウ とのインタビューを掲載した『ワイルダーならどうする?』が出版されたが、盟友ジャック・レモンが2001年 に亡くなり、それから一年もたたない内にレモンの後を追うようにして2002年 、カリフォルニア州 ・ロサンゼルス の自宅にて95歳で妻に見取られて死去、死因は肺炎だった。
アカデミー賞 の常連であり、ノミネート回数は20回に及ぶ。アルフレッド・ヒッチコック 、ジョン・フォード と並びハリウッドを代表する名匠のひとりだった。現在でもキャメロン・クロウをはじめ、サム・メンデス やロン・ハワード といった若い世代の監督たちからも絶大な支持があり、日本 でも立川談志 、三谷幸喜 、和田誠 、杉浦直樹 、小堺一機 など多くのファンがいる。
人物・性格 大のネクタイ 嫌いで知られていた。鋭く見抜く知性と、信念とこだわりを貫く強い気質から、俳優やスタッフや製作会社上層部と口論になることも少なくなく、特にコンビを組んでいたチャールズ・ブラケットをはじめ、ワイルダー作の脚本を勝手に変更していたミッチェル・ライゼン、『深夜の告白』で共同脚本を担当した作家のレイモンド・チャンドラー、『麗しのサブリナ』に出演したハンフリー・ボガート とは険悪な仲だった。ただしボガートは死の床でワイルダーに許しを乞うて和解したという[2] 。
MGMの最高権力者であったルイス・B・メイヤーは『サンセット大通り』の試写を見て激怒。試写会のロビーで声を荒らげ、それを聞いたワイルダーはメイヤーに向かって「Fuck you」と言い返したという。
また『情婦』で共同脚色に当たったハニー・カーニッツは「仕事中のビリー・ワイルダーはハイド氏 とハイド氏という二重人格になる」とコメントした。
しかし、撮影中は滅多なことでは怒鳴らず、俳優やスタッフの意見も尊重していたという。ジャック・レモンはワイルダーに関して、「実の父のようだ」と尊敬の念を述べ、同じドイツ語圏出身のマレーネ・ディートリヒ は「私が最高の監督と認めるのはワイルダーとジョセフ・フォン・スタンバーグ だけ」とコメントしている。
その一方で美術コレクターでも知られ、目利きとしても有名で、ワイルダーの友人である実業家リチャード・コーエンは、ワイルダーの鑑賞眼は玄人すら一目置くほどだったと語っている。1989年 にコレクションがオークションに出された時の合計金額は3260万ドルという高額だったという。
作風 日本ではワイルダーはコメディが得意な監督と思われがちだが、初期はシリアスなドラマやサスペンスの方が多かった。また自らを職人監督と自負し、アメリカン・フィルム・インスティチュートのインタビューで「私は芸術映画は作らない。映画を撮るだけだ」と明言し、生涯、娯楽映画に徹した。
ワイルダー作品の特徴して、変装をよく題材に取り上げていることが挙げられるが、インタビュー本「ワイルダーならどうする?」では、その理由としてワイルダーはフェレンツ・モルナール 原作の舞台劇『近衛兵』からインスピレーションを受けたと語っている。また回想形式の作品が多く、回想形式でなくとも映画の導入部にナレーションを使うことが多かった。
脚本家出身の映画監督だけあって、全作品の脚本を担当した(但し全て共同脚本。単独脚本はドイツ時代にしか書いていない)が、その作品数の3分の1がオリジナル脚本ではなく、舞台劇か小説の映画化作品だった。そのため、全てオリジナル脚本だったプレストン・スタージェスが早くから失速したのに比べ、ワイルダーはすでに構成や台詞が練られている作品を手掛けた結果、スタージェスのように才能が枯渇することなく半世紀近くに及ぶ息の長い監督人生を送ることになった。
ヨーロッパ出身の人物だけに作品も以前在住したことのあるパリ(『麗しのサブリナ』、『翼よ! あれが巴里の灯だ』、『昼下りの情事』、『あなただけ今晩は』)やベルリン(『異国の出来事』、『ワン・ツー・スリー』)などをはじめ、ロンドン (『情婦』、『シャーロック・ホームズの冒険』)、イタリア (『お熱い夜をあなたに』)、ギリシア (『悲愁』)などヨーロッパを舞台にした作品が多い。
またキャスティングも非常に凝っており、往年の大女優の悲劇を描いた『サンセット大通り』は実際にサイレント映画の大スターだったグロリア・スワンソン をはじめ、スワンソン扮する大女優を育てた映画監督役として実際、スワンソンの主演映画を手掛けたエリッヒ・フォン・シュトロハイム やセシル・B・デミル を起用、他にもバスター・キートン など多くのサイレント映画スターをカメオ出演させた。これ以外にも、禁酒法時代が舞台の『お熱いのがお好き』ではギャング役に当時のギャング映画スターだったジョージ・ラフト を起用、『ねぇ!キスしてよ』では酒と女が好きなラスベガス の人気歌手役にディーン・マーティン を出演(役名のディノは実際、マーティンの愛称)させるなど、俳優の地で行くようなキャスティングをするのを好んだ。
7回とワイルダー映画最多出演を誇るジャック・レモンをはじめ、ウィリアム・ホールデン (4回)、ウォルター・マッソー (3回)、オードリー・ヘプバーン、マリリン・モンロー、シャーリー・マクレーン 、マレーネ・ディートリヒ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、レイ・ミランド 、フレッド・マクマレー (以上2回)など同じ俳優を何度も作品に起用した。『情婦』に弁護士役で出演したチャールズ・ロートン に関しては、『情婦』での演技に感銘したワイルダーが『あなただけ今晩は』でバーテンダー役として再び起用しようとしたが、撮影直前にロートンが死去したため、実現には至らなかった。
結婚生活 最初の妻とは1936年 に結婚し、2人の子供を儲けるが、1人は生まれてまもなく死亡。ワイルダーが戦後、軍の仕事でヨーロッパに行ったことがきっかけで次第に夫婦関係の方もギクシャクし、ワイルダーもアメリカに帰国しても家には帰らず結局は離婚する。2番目の妻となるオードリー・ヤング は元々トミー・ドーシー 楽団の専属歌手でたまたまパラマウント映画に雇われて『失われた週末』に主役のレイ・ミランド がつまみ出されるバーの帽子預かり係として出演したところ、その当時、離婚間近だったワイルダーが一目惚れし、1949年 に結婚。以来、結婚生活はワイルダーが亡くなるまで半世紀も続く、ハリウッド一のおしどり夫婦として知られた。
エピソード 渡米後、切れたビザを更新するために、国境付近の米国領事館に赴くも、書類の不備からなかなかビザの発行がおりずに絶望的になっていた時、副領事から「仕事は何をしているのか?」と尋ねられ、ワイルダーはつたない英語で「映画の脚本家です(Write Movies.)」と答えると、副領事は「いいシナリオを書きたまえ」と言ってパスポートにスタンプを押してくれたという。以来、ワイルダーは副領事の言葉通り、いいシナリオを書くようベストを尽くしたという。ワイルダーはその後、1987年度のアカデミー賞 でアーヴィン・タールバーグ賞を受賞した際のスピーチで、これらのエピソードを披露し[4] 、会場の喝采を浴びた。 英語が全く出来なかったことから、毎日20語の英単語を暗記して、一日中部屋にこもってラジオを聴くなどかなりの勉強家だった。しかしその後、言葉のセンスを磨くのに役立ったと言われている。ただし、英語脚本で単独執筆した作品はない。三十数年ぶりにドイツ映画に帰還しての(監督としては初)『悲愁』は英語作品だったが、やはりダイアモンドとの共同脚本である。 エルンスト・ルビッチ を自らの師と仰ぎ、また自分が最も影響を受けた映画監督であると明言しているワイルダーは、自分のオフィスにソール・スタインバーグ がデザインした「ルビッチならどうする? (How would Lubitsch have done it?)」という看板を掲げ、創作活動を励んでいたという[5] 。ちなみにこのフレーズを捩ったのが、キャメロン・クロウとのインタビュー本「ワイルダーならどうする?」であり、2000年にテレビ番組の取材でワイルダー本人と直接インタビューした三谷幸喜 は、ワイルダーから「私ならこうする。ビリー・ワイルダー」と色紙に書いてもらい、額に入れて飾っているという。母親をアウシュヴィッツで亡くしていることから、自身の最後の作品として『シンドラーのリスト 』の映画化に積極的だったワイルダーだが、同じく映画化に積極的だったスティーヴン・スピルバーグ と話し合いをして、結局、スピルバーグが映画化権を獲得し、ワイルダーが身を引く形となった[1] 。 映画監督のウィリアム・ワイラー とよく名前を混同されることが多く、間違われた際、ワイルダーが「モネ 、マネ 、違いはないじゃないか」と冗談めいて言ったというが、実際、ワイラーとは個人的にも親しく、お互いの作品について論じ合う仲で、ワイルダーはワイラー作品のお気に入りとして『我等の生涯の最良の年』を挙げている。 ワイルダー映画では出演者が撮影中に病気や怪我などのアクシデントで倒れるケースが何故か多く、例えば『ワン・ツー・スリー』ではホルスト・ブッフホルツ が交通事故で入院して撮影が中断、『ねぇ!キスしてよ』ではピーター・セラーズ が撮影中に心臓発作で倒れ、仕方なく代役としてレイ・ウォルストン を起用、『恋人よ帰れ!わが胸に』では今度はウォルター・マッソーが倒れ、この場合は数週間で退院となったので、マッソーのまま撮影が続行された。他にも『アパートの鍵貸します』のポール・ダグラス や『あなただけ今晩は』のチャールズ・ロートンなどキャスティングが決まった直後に急死してしまったケースもあった。 周防正行 の『Shall we ダンス? 』については「大好きな映画だ。あれは他の映画のまったく正反対をいっている。妻が夫に不審の念を抱く。探偵を雇い、(中略)すばらしくおかしい。それに主人公が男としてしだいに美しくなっていくそのプロセスがいい」とのコメントを残している。1960年代後半のアメリカン・ニューシネマについても「私はハル・アシュビー を全面的に支持していた。もうこの世にはいないがね。(中略)でも彼は優れた監督だった」と言及している。 代表作 脚本 監督 受賞歴 ※監督作品の作品賞受賞・ノミネートも含む。
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