グローテ・マルクト のアントウェルペン市庁舎 (Stadhuis van Antwerpen )ハントシェーンマルクトの聖母大聖堂 。低地地方 最大の大聖堂であり、ルーベンス の三連祭壇画 がある。現在も市内最大の建造物 運河に架かる橋 アントウェルペン (オランダ語 : Antwerpen [ˈɑntʋɛrpə(n)] ( 音声ファイル ) , フランス語 : Anvers [ɑ̃vɛʁ(s)] , 英語 : Antwerp [ˈæntwɜrp] , ドイツ語 旧称: Antorf, Antorff )は、ベルギー のフランデレン地域 ・アントウェルペン州 の州都である。首都 ブリュッセル に次ぐ同国第2の都市で、都市圏人口は約120万人。市としては最多の人口を持ち、2020年1月1日の総人口は52万7763人。面積は204.51 km2 , 人口密度 は2581人/km2 である[1] 。
オランダ のロッテルダム と共に欧州を代表する港湾都市 の1つ[2] 。
名称 英語名に由来するアントワープ や、フランス語名に由来するアンヴェルス (アンベルス )[注釈 1] も日本語の表記においてよく用いられる。
名前の由来 街の名称は、古くは巨人アンティゴーン と英雄ブラボー の伝説に由来するとされてきた。スヘルデ川 の川岸の城に住む巨人ドルオン・アンティゴーン は、城付近を通り過ぎる船に通行料を求め、それに応じない者に対しては、その手を切り落として河へ放り捨てた。しかし、ついにローマ の戦士ブラボーがアンティゴーンの息の根を止め、手を切り落として河へ投げ捨てた。Antwerpen はこの出来事に由来し、handwerpen(hand 手 + werpen 投げる)が元になっているという[3] 。現在のアントウェルペン市庁舎前には、この伝説を主題とする記念碑「ブラボーの噴水」がある。これは民間語源 であるものの、手を切断することは実際に当時のヨーロッパで行われており、中世には死者の右手が切断され、「死手譲渡 」の証拠として封建領主 に送られることもあった。
しかし、19世紀の歴史家・外交官ジョン・ロスロップ・モトリー は、アントウェルペンという名称を「an 't werf (on the wharf、wharfは波止場)」、または「Aan 't werp(at the warp)」に由来するという議論を展開した。ここでの「warp」とは、高潮でも農地が水浸しにならないだけの土手を築いたことを指しており、農民たちは堤防の先に農地を広げていった。「werp」という語には「pol(ポルダー 、干拓地)」という意味もある。
現在最も有力な説は、ガロ・ローマ文化 期のラテン語 「antverpia」であり、アントウェルペンはかつてのスヘルデ川の湾曲にそって形成されたとする。この語は「Ante」(before)と「Verpia (砂などの粒子が水などによって堆積、沈殿したもの)」に由来しており、スヘルデ川の湾曲に伴う堆積作用によって土地が形成されていったことを示している。ただし、スヘルデ川は7世紀から8世紀半ば頃に流れが変わっており、かつての流域は、街の南部にある現在の環状道路とほぼ一致していると考えられる。[4]
地理 地勢 スヘルデ川 の右岸に位置する。スヘルデ川はオランダ南西部ゼーラント州 の西部スヘルデ河口域 (Westerschelde) を経て北海 につながっている。アントウェルペンには大きな正統派ユダヤ人 (ハレーディー )のコミュニティがあり、そこから「西のエルサレム 」との綽名がある。ダイヤモンド 研磨用の円盤 (Scaif ) を発明したローデウィク・ファン・ベルケン (Lodewyk van Berken) もユダヤ系ベルギー人 であり、この発明によってユダヤ人のダイヤモンドカット職人が多くなり、町もダイヤモンド取引およびカット・研磨の中心として著名になった。1990年代 からはファッションの街としても名がある。これは王立美術学校 の何人かの卒業生がモード界で国際的な成功を収めたことに起因する。アントウェルペン動物園(英語版 ) は1843年開園で、世界でも最古また最も有名な動物園 のひとつである。この動物園は市の中心部にあり、4,000種以上の動物を飼育している。王立動物学協会は多くの動物の扱いを見守っており、100年以上に渡って絶滅危惧種の保護にあたってきた。行政区 区域 行政区域としてのアントウェルペンは9つの地区からなる。
アントウェルペン ベルヘム ベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ ボルヘルハウト デールヌ エーケレム ホーボーケン メルクセム ウィルレイク 人口 1806年から1970年までは12月31日における人口、1980年からは1月1日における人口。 1923年:ブルホトとツワインドレヒトがアントウェルペンに合併された (市域は+11,77 km²、住民は+2.426人) 1929年:オールデレン 、オーステルウィール、ウィルマースドンク がアントウェルペンと合併した。(市域は+46,29 km²、住民は+5.543人) 1958年:ベーレンドレヒト、ザントフリート、リロ(あわせて現在のベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ)がアントウェルペンと合併した。(市域は+52,93 km²、住民は+7.249 人) 1983年:ベルヘム、ボルケルハウト、デウネ、ホーボーケン、メルクセム 、ウィルレイクと大部分のエーケレムがアントウェルペンと合併した。これにより大幅に市民数が増加した。(市域は+64,68 km²、住民は+305.503人) 言語 オランダ語 がアントウェルペンの公用語である。地元の人々はそのアントウェルペン方言を用いている。いくらかの人々の間ではフランス語 も話される。大多数の住民、特に若い世代の多くはかなり流暢な英語を話す。モロッコやトルコなどからの移民はアラビア語 、ベルベル語 やトルコ語 などを用いている。若干の正統派ユダヤ教 の人々はイディッシュ語 を話す。
歴史 古代から中世 歴史上、アントウェルペンはガロ・ローマ文明の集落にその起源があると考えられる。スヘルデ川付近における最古の集落がある地域で1952年から1961年にかけて発掘が行われ、2世紀半ばから3世紀末の陶器や杯の破片が出土している。その後、ゲルマン人 のフランク族 が進出した。メロヴィング朝 期においてアントウェルペンに砦が築かれ、7世紀頃に聖アマンドゥスによってキリスト教化された。10世紀末、スヘルデ川は神聖ローマ帝国 における境界となった。アントウェルペンには辺境伯 が置かれ、フランドル伯 と対峙した。11世紀、ゴドフロワ・ド・ブイヨン が、数年間アントウェルペンを治めた。12世紀、聖ノルベルト(ノルベルト・フォン・クサンテン)が、プレモントレ会則に基づくサン・ミシェル修道院を建てた。14世紀前半に英仏百年戦争 が勃発するが、フランドル地方の毛織物産業はイングランド の羊毛産業と密接なつながりがあったため、親イングランドの立場をとろうとした。そのため、フランス 王と結んでいるフランドル伯に対抗して、ヤコブ・ヴァン・アルテベルデ がフランドル都市連合指導者となり、イングランド側を支持する姿勢をとった。アントウェルペンは、この百年戦争初期にイングランド王エドワード3世 とヤコブ・ヴァン・アルテベルデが交渉にとりかかった際の拠点でもあった。エドワードの息子ライオネル・オブ・アントワープ は、アントウェルペンで生まれている。
15世紀前半、フランドル諸都市は、イングランド産毛織物の流入によって市場を奪われることを望まず、ブルゴーニュ公 に働きかけて輸入禁止の措置をとらせた。こうしたなか、アントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾーム はイングランドの毛織物商人を受け入れたため、イングランド産毛織物がアントウェルペンに流入した。この毛織物をライン川 沿いのケルン 商人が購入し、南ドイツなどへ供給するようになった。[5] 15世紀半ばには、ニュルンベルク やアウクスブルク などの南ドイツ商人が、直接にアントウェルペンまで取引に訪れるようになった。これにより、香料をブルッヘ 経由でなくイタリアから南ドイツ経由で入手できるようになった。こうした状況が近世アントウェルペン繁栄の前提となった。[6]
近世 アントウェルペンの地図 1624年 このような商業網の変化に加え、ズウィン が土砂の堆積によって航行困難となったこともあり、中世後期におけるネーデルラント経済の中心ブルッヘ が衰退していき、それに代わってスヘルデ河畔のアントウェルペン(当時はブラバント公国 の支配下)が重要性を増すことになった。ライン川沿いのケルン 商人との結びつきを強めたことでヨーロッパ商業網における地位は一層強化され、15世紀末には外国商館がブルッヘからアントウェルペンへと移転し始めた。1501年にはスヘルデ河岸にポルトガル 船が香辛料などを積んで到来し[7] 、1508年にはポルトガル王のもとで商館が設立され[8] 、1510年におけるイングランド商館についての記載も史料に残されている。
歴史家フェルナン・ブローデル は、「このスヘルデ川に臨む都市はじつに国際経済全体の中心にあった。ブリュージュはというと、その最盛期にあっても、その地位まで到達したことがなかったのである」[9] と評している。そのアントウェルペンの黄金時代は、強く「大交易時代 」と関連して海運業の隆盛を極め、16世紀前半より成長を遂げて1560年までにはアルプス以北における最大規模の都市となった。多くの外国商人が街に居住し、ポルトガル船からは胡椒やシナモンなどの積荷が日々下ろされていた。ヴェネツィア の大使だったフランチェスコ・グイチャルディーニ は、何百の船舶が一日に往来し、2千もの荷馬車が毎週やってくることを記している。また、ポーランド産穀物 を積んだ船の寄港地として、いくつもの倉庫を抱えていた。
ヴェネツィアやジェノヴァ の繁栄は各地へと赴いた地元出身の商人によって支えられていたが、アントウェルペンの場合は同市出身の商人が世界各地に勇躍していったわけではない。アントウェルペン経済は、ヴェネツィアやラグーザ(ドゥブロヴニク )、スペイン、ポルトガルなど各地からやって来た商人たちの手で支えられており、このことが都市内の多様性・コスモポリタン的性格を形成していった[10] 。宗教的にも寛容で、ユダヤ教正統派 の大規模なコミュニティも形成されたほか、イベリア半島 を追われた「マラーノ (マラノス)」の亡命先や、プロテスタント の拠点ともなり得たのである。
しかし、アントウェルペンは(ヴェネツィアやジェノヴァのような)「自由都市 、自治共和国 」というわけではない。一時はブリュッセル のブラバント公による支配から離れたものの、1406年より再びブリュッセルの統制下に置かれていた。
アントウェルペンはこの黄金時代に1501年から1521年、1535年から1557年、1559年から1568年と3回の好況を迎えた。[11] 最初の繁栄は、ポルトガルからもたらされた胡椒 であった。この好況は1521年よりイタリア戦争 が深刻化し、ヴァロワ家 とハプスブルク家 の間の戦乱によって国際商業が麻痺したことで収束していった。次の時期は、セビーリャ 経由でアメリカ大陸産の銀が流入したことであった。これはスペインの国家財政が破綻する1557年に収束していった。最後の時期は、1559年にカトー・カンブレジ条約 が締結されたことに伴う政治的安定であった。この時期にはイングランドと競合しつつも繊維産業が発展をみせた。
国際的な商業拠点として出版も盛んであった。16世紀のアントウェルペンは、現地フラマン語 の文献のみでなく、英語やフランス語の出版・輸出拠点として栄えた。宗教的に寛容な性格のためプロテスタントの文献も多く出版された。実に、当時のネーデルラントで出版された文献のうち半数以上がアントウェルペン刊だったとされている[12] 。16世紀後半で最も偉大な印刷出版業者ともいわれる[13] クリストフ・プランタン の工房は市内に現存しており、プランタン=モレトゥス博物館 として、当時の出版文化を伝えている。
他方、コスモポリタン的性格の裏面として、海賊版 の出版拠点となっていたことも事実である。中には、他の都市の業者の中にも、何らかの事情で版元を明かさず出版するときに、出版地をアントウェルペンと偽るケースも見られた[12] 。リヨンの大手ブノワ・リゴー も、「アンヴェルスのピエール・ストルー」という架空の名義で出版したことがあった[14] 。
アントウェルペンの人口は、1500年には4万数千であったが、八十年戦争 (オランダ独立戦争)勃発以前には10万を越えた。建造物の数も倍増した。その反面で貧困層も増加し、好不況の波と持続的な物価上昇は、未熟練労働者・荷運び人夫などの生活を苦しめることになった。
イタリア戦争 後、スペイン王フェリペ2世 は異母姉であるパルマ公妃マルゲリータ をネーデルラント17州 の執政(全州総督)に任じた。フェリペ2世はネーデルラントの統制強化を図り、宗教的にはカトリックの強制を図ったため、ネーデルラント各地で集権化に反発する貴族やプロテスタントとの反目を生じさせた。1566年8月よりネーデルラント各地に広がった反乱は鎮静化したものの、この際のマルゲリータの対応に不満を持ったフェリペ2世は、1567年8月により強硬姿勢をとるアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド を派遣した。しかし、対立はより先鋭化して翌年に八十年戦争 (オランダ独立戦争)が勃発した。この戦争によってスペイン北部のビルバオ とアントウェルペンを結ぶ交易ルートが維持できなくなり、イベリア半島との商取引が困難になったほか、スヘルデ川の封鎖も同市の経済を苦しめた。さらに1576年11月4日、スペインの兵士がアントウェルペンで残忍な掠奪を行った。これにより数千の市民が虐殺され、数百の家屋が焼き払われた。この被害額は200万スターリング にも及んだとされる。
この事件でネーデルラントの反スペイン勢力は一時的に妥協を余儀なくされたが(ヘントの和約)、アントウェルペン市民の反スペイン感情は深まった。1579年のユトレヒト同盟 にもアントウェルペンは加わり、反スペインの姿勢を鮮明とした。しかし、1583年末までに同市の周辺地域はスペインに占領されており、オラニエ公ウィレム1世 もネーデルラント北部の戦闘に向けて同市を離れた。アントウェルペンに迫るスペイン軍に対して、当時の市長フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊させるなど長期の抵抗をみせたが、市内の食糧備蓄が限界に近づくと、1585年8月にスペイン側のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ に降服を余儀なくされた。
降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民はアントウェルペンを立ち去るまでに2年間の猶予が与えられた。[15] そのほとんどがネーデルラント連邦共和国 (オランダ )へと移住したことは、オランダが黄金時代を築いていく前提となった。一方、その後のアントウェルペンにおける銀行業務はジェノヴァ商人の統制下におかれた。こうしたことの結果、アントウェルペンに代わってオランダのアムステルダム が世界商業・金融の中心地となっていった。
1648年、三十年戦争 の講和条約であるヴェストファーレン条約 (そのうちのミュンスター条約)でオランダの主権が認められると、オランダはアントウェルペンの商業活動に壊滅的な打撃を与えるため、スヘルデ川の河口を閉鎖することを要求した。これには、スペイン・ハプスブルク家 の統治下にある南ネーデルラント がオランダの脅威にならないようにする狙いがあったのであるが、ネーデルラント南部が1795年から1814年まではフランスの統治下にあったこと、1815年から1830年まではオランダ立憲王国 の統治下にあったことで、実際にはその統制は緩められていた。
近現代 アントワープ証券取引所 1886年頃1800年頃、アントウェルペンは最も停滞した時期を迎え、当時の人口は4万人以下にまで沈んだ。しかしナポレオン・ボナパルト は、アントウェルペンの戦略的重要性から、防波堤と2つのドックを建設するために港の拡張を図り、スヘルデ川にもっと大きな船舶が接岸できるように川底を掘り下げようとした。ナポレオンは、アントウェルペンの港をヨーロッパ屈指のものとすることで、ナポレオンと対立するイギリスのロンドン 港に対抗し、イギリスの力を抑えようとしたのである。しかし、ワーテルローの戦い で失脚したため、この構想は実現しなかった。[16]
1830年、アントウェルペンはオランダからのベルギー独立 を目指す反乱軍によって包囲された。ダヴィド=ヘンドリック・シャッセ将軍が統率するオランダ守備兵がアントウェルペンを防衛したが、ベルギー軍の断続的な砲撃によって打撃を受け、フランス軍によるベルギー支援もあって、シャッセは勇敢に戦ったものの降服を余儀なくされた。
1843年にはケルン とアントウェルペンの間が鉄道で結ばれ、近代アントウェルペンの発展に貢献した。1863年にベルギーがオランダからスヘルデ川の航行自由権を買収したことも街の発展に寄与した。
1903年、初めての世界体操競技選手権がアントウェルペンで開催された。第一次世界大戦中、ベルギーは中立国だったにもかかわらずドイツ軍の攻撃を受け、アントウェルペンはリエージュ で敗れたベルギー軍の退却地点となった。その後、さらなるドイツ軍の厳しい攻撃によって、ベルギー軍はさらに西方への撤退を余儀なくされた。
アントウェルペンは1920年の夏季オリンピック開催地 となった。1928年、アントウェルペンの補欠選挙で、「フロント党」のアウグステ・ボルムス が勝利した。このことがフランス系とオランダ系住民の対立を激化させ、当時の首相だったジャスパールは大学教育におけるオランダ語の使用を容認した。1936年にはアントウェルペン港で大規模なゼネストが発生し、ベルギー全土に広がりをみせた。このため組合・経営者・政府による全国労働者会議が開催され、労働者の権利が拡大した。
第二次世界大戦 において、アントウェルペンはその港ゆえに戦略上の要所となった。1940年5月にドイツ軍によって占領され、1944年9月4日、イギリス第11機甲師団によって解放された。この後、アントウェルペン港から連合軍が新たな物資を荷揚げすることを防ぐため、幾千ものV-1 、V-2 ミサイルを使って港を破壊しようとした。とりわけV-2ミサイルは戦争を通じてアントウェルペンに打撃を与えたが、その多くが他の建造物に当たったため港は破壊できなかった。その結果、大戦を通じて港は守られたものの街は深刻な打撃を受け、大戦後になってモダン風に再建された。また、戦前よりかなりのユダヤ教徒がアントウェルペンにいたが、大戦後には再び超正統派 、正統派 ユダヤ教の中心地となった。
経済 アントワープ港のコンテナ埠頭 アントワープ港 全米港湾当局協会 (American Association of Port Authorities ) によれば、2020年時点でアントウェルペン港はトン数で世界第14位[17] の港湾であり、ヨーロッパ内でもロッテルダム港 に続く2位となっている。同港は高価値のジェネラルカーゴ(雑貨物)やプロジェクトカーゴ(重量貨物)、またバルクカーゴ を大量に取り扱っている点で重要である。アントウェルペンの港湾地区には5つの石油精製所 があり、アメリカ ・テキサス州 ヒューストン に次ぐ規模の石油化学 工業製品の集積地となっている。
市街中心部の北から南へ 3.5マイル (5.6 km) にわたって続いているスヘルデ川沿いの波止場は、クルーズ客船 や近海航路の乗船場として利用されている。
発電所 発電所 も重要な施設であり、近隣のオースト=フランデレン州 ・ベフェレンのドエル地区 (Doel) に4基の原子力発電所 、同じくカロ (Kallo) に1基の火力発電所 があり、加えて小規模のコンバインドサイクル発電所 が数か所にある。さらに、港湾地区の中の利用されていない土地に風力発電所 を建設する計画もある。
ダイヤモンド アントウェルペンのもう一つの主産業はダイヤモンドの取引である。市内には4つの取引所があり、1つはボルツと呼ばれる不透明のダイヤ専門、ほか3つは一般品質のものを扱っている。第二次世界大戦 以降、市内のユダヤ人コミュニティ出身の各家族がダイヤ取引業界を一手に取り仕切っているが、1990年代頃からはインド人・アルメニア人の業者も増えてきている。アントウェルペンにある「アントワープ・ワールド・ダイヤモンド・センター」(Antwerp World Diamond Centre, 前身は "Hoge Raad voor Diamant")は、ダイヤの品質基準の設定、業者の倫理の取り決め、職人の訓練、またダイヤ産業の中心地としてのアントウェルペンを広く宣伝することに大きな役割を果たしている。
交通 アントウェルペン中央駅 空港 アントウェルペン国際空港がデールヌ地区にある。VLMエアラインズ が英国のロンドン (シティ )やマンチェスター とを直接に空路で結んでいる。市の中心部から空港までは数kmで、バスと鉄道が運行している。
鉄道 アントウェルペンから各地に鉄道路線が広がっている。北へはエッセンを経てオランダへ、東にはトゥルンハウト 、南にはメヘレン 、ブリュッセル、シャルルロワ (途中で乗り換え)、そして南西にはヘントやオーステンデ へ至る路線がある。国際列車としては、アムステルダム とパリ を結ぶ列車がアントウェルペンに停車する。アントウェルペンのほか、ヘント、ブルッヘ、オーステンデ、ブリュッセル、シャルルロワ、ハッセルト、リエージュ、トゥルンハウトなどにも停車する。
アントウェルペン中央駅 は、その駅舎自体が歴史的記念碑としての価値を有しており、W・G・ゼーバルト の代表作『アウステルリッツ 』でも登場する。2007年には高速列車通過のためのトンネルが建設された。詳細はベルギー高速鉄道4号線 を参照。
なお、アントウェルペンの初めの鉄道は馬車鉄道 であった。その後、機関車鉄道は敷設されずに電気鉄道が敷設された。1901年には、在ベルギー日本領事館領事(当時ベルギーはドイツ帝国 の連邦国家[要出典 ] )幣原喜重郎 が、日本の鉄道省 に電気鉄道事業の概要を報告した。
トラム トラムは全12路線で、そのうち地下鉄のように運行されているものは「premetro」と称されており、河川の下にトンネルが掘られている。
バス アントウェルペンには「De Lijn (The Line)」によって運営されているトラムとバスの交通網が張り巡らされており、アントウェルペン中心部と郊外やスヘルデ川左岸地区を結んでいる。
道路 高速道路が中心部を取り囲む形で整備されており、地元では「Ring」と称されている。この高速道路がブリュッセル 、ハッセルト 、リエージュ 、ヘント 、リール 、ブルッヘ などの主要都市のほか、オランダのブレダ 、ベルゲン・オプ・ゾーム などと結ばれている。スヘルデ川の両岸は3本のトンネルで結ばれており、建設順にthe Waasland Tunnel (1934)、the Kennedy Tunnel (1967)、the Liefkenshoek Tunnel (1991)となっている。
港湾 観光 世界遺産 アントウェルペン市内には、世界遺産 に登録されている物件が4つある。
また、世界遺産暫定リスト 登録物件として、以下の2件が存在している[18] 。
スヘルデ川から1250年頃の城壁までのアントウェルペン(アンヴェルス)の歴史的中心地(Noyau historique d'Antwerpen -Anvers- de l'Escaut aux anciens remparts de vers 1250) 文化 ハンス・マカルト の代表作『カール5世のアントワープ入城 』アントウェルペンにはアントウェルペン王立芸術学院 があり、優れたファッション・デザイナーを輩出している。特に1980年代に頭角を現してきた6人は「アントウェルペンの6人 」と呼ばれ、現在でも国際的に活躍している。
アニメで一躍有名となった物語『フランダースの犬 』の舞台でもあるが、現地の人にはあまり知られておらず、ゆかりの地を訪ねてやってくる観光客はほとんど日本人である。また、リヒャルト・ワーグナー のオペラ『ローエングリン 』は、10世紀のアントウェルペンを舞台としている。
スポーツ サッカー 主な運動施設 出身・関連著名人 芸術家 スポーツ選手 対外関係 姉妹都市・提携都市 姉妹都市 パートナーシップ都市 姉妹港・提携港 友好港 脚注 注釈 出典 参考文献 関連項目 外部リンク