![曖昧さ回避](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Disambig_gray.svg/25px-Disambig_gray.svg.png) | この項目では、フランスの都市について説明しています。- 『魔導物語』・『ぷよぷよ』などに登場する架空のキャラクターについては「アルル・ナジャ」をご覧ください。
- かつて「ダイヤモンドシティ・アルル」「イオンモール橿原アルル」という名称だった商業施設については「イオンモール橿原」をご覧ください。
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アルル(フランス語: Arles、オック語プロヴァンサル方言: Arle)は、南フランスのプロヴァンス地方にあるコミューン。同国内最大面積を持つ。住民の呼称はアルレジャン(Arlésiens)と呼ばれ、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画などの題名に用いられている『アルルの女(l'Arlésienne)』はこの女性単数形である。
地理・気候
アルルは、ローヌ川の分岐点に位置し、カマルグの大部分を含む(カマルグの残りはサント=マリー=ド=ラ=メールに含まれる)。フランスの市町村(コミューン)では最大の面積を持ち、テリトワール=ド=ベルフォール県などよりも広い。
アルルは地中海性気候で、暑く乾燥した長い夏、穏やかな冬という対照的な季節があり、日照時間は長いが降水量が安定しない。
歴史
ローマ都市アルル
アルルは紀元前6世紀頃ギリシア人によって"Theline"の名前で創設された。紀元前535年にケルト人のSalluviiによって占領された。彼は街の名前を "アレラーテ(Arelate)"(「湖(池、潟)の近く」の意味)に変更した。ローマ人は紀元前123年に街を占領した。地中海に繋がる運河を紀元前104年に建設し、街を拡張して重要な都市とした。しかし同じく海岸沿いのマッサリア(現在のマルセイユ)の影に隠れて、もがくことになった。チャンスはやってきた。カエサルがポンペイウスと対峙した時、アルルはカエサルの側に付き、軍隊を派遣した。一方、マッサリアはポンペイウスを支援していた。カエサルの勝利が決定的になると、マッサリアはその所有物を取り上げられ、報償としてアルルに引き継がれた。街はアルルに拠点のあったローマ軍の第6軍団フェッラタの退役軍人のための植民市として正式に設立した。植民市としての正式な肩書きは"コロニア・ユリア・パーテルナ・アレラテンシス・セクタンノールム(Colonia Iulia Paterna Arelatensium Sextanorum)"で、英語にすると"the ancestral Julian colony of Arles of the soldiers of the Sixth"「第6軍団の先祖伝来のアルルのユリウス植民地」であった。
重要性
アレラーテはローマ帝国の属州であったガリア・ナルボネンシスの非常に重要な都市であった。99エーカー (400,000 m2)程の土地を有し、円形闘技場、凱旋門、キルクス、劇場、円環状の市壁など、豊富で幅広い記念物を所有していた。現在のアルルの街よりも海に近く、主要港としても機能した。ローヌ川の最も南側にかかる橋もあった。このローマ橋は固定されているわけではなく、平底船型の橋として使用されていた。両端には塔と跳ね橋が付いていた。ボートは錨がおろされ、ちょうど少し上流に建てられた2つの塔に繋がれる形で、安全が保たれていた。この一般的でない設計は、頻繁に起こる激しい川の洪水に対処するためであった。現在は同じ場所により近代的な橋がかけられ、ローマ橋は全く残っていない。
4-5世紀の間、軍事遠征の際の、ローマ皇帝のための本部として頻繁に使用され、街の影響力はピークをむかえた。395年、西ローマ帝国の西部(ガリアにヒスパニアとアルモリカを加えた場所)を統治する、ガリアのプラエトリアニの本拠地となった。
街は、皇帝コンスタンティヌス1世のお気に入りとなり、彼はここにローマ浴場を建設した。現在もその大部分は残っている。彼の息子のコンスタンティヌス2世は、この街で生まれた。コンスタンティヌス3世は、ここで西ローマ帝国の西部の皇帝になることを宣言し、408年にここを都とした。
帝国末期には、街は文化的と宗教的な中心地となった。懐疑論の哲学者であるファウォリヌスはここで生まれた。街はローマカトリック教会にとっても鍵となる位置にあり、ガリアのキリスト教化の重要な基地となった。街の主教職は一連のすぐれた聖職者たちによって支えられた。225年頃のトロフィムス(英語版)に始まり、アルルの聖ホノラトゥス(フランス語版)(Saint Honoré)、5世紀前半のアルルの聖ヒラリウス(フランス語版)(Saint Hilary)と引き継がれた。
中世
アルルは、8世紀にこの地域を支配したイスラム教徒のサラセン人や、フランク人の侵入によって大きく影響を受けた。855年フランク人の都アルル王国が造られた。この王国はブルグント王国やプロヴァンスの一部も含んでいたが、頻繁にサラセン人やヴァイキングの侵略者のテロ攻撃を受けた。888年オーセル伯のロドルフが上ブルグント王国を設立した。この王国はスイス西部も含んでいた。
933年アルル伯ユーグは王国をブルグント王ロドルフ2世に与えた。ロドルフ2世は二つの王国を、新設したアルル王国に併合した。1032年ロドルフ3世が亡くなり、王国は神聖ローマ皇帝コンラート2世に継承された。
近代
アルルはローヌ地方の主要な港として、経済的に長い間影響力を残した。19世紀の鉄道の開通が、最終的に水運による貿易を壊滅させてしまい、街をある種の僻地にしてしまった。
しかしこのことで、画家フィンセント・ファン・ゴッホにとってこの街が魅力的な目的地となった。彼は1888年2月21日に街に到着した。彼はその景観に魅了され、アルル時代に300以上の絵画や描画を制作した。『夜のカフェ』、『ファンゴッホの寝室』、『ローヌ川の星月夜』、『アルルの女』を含む彼の有名な絵画の多くはこの地で完成した。ポール・ゴーギャンは、アルルにいたゴッホを訪ねたが、ゴッホの精神状態が悪化しており、憂慮すべきほどに異様であり、1888年12月には悪名の高い耳の切り落とし事件を起こすに至った。ゴッホと関係のあったアルルの人たちは、翌年2月にゴッホを幽閉することを要求した陳情を人々に広めた。1889年5月、彼は気を利かせ、アルルを離れてサン=レミ=ド=プロヴァンス近郊の精神病院に入院した。
また、ゴッホの絵画作品と同名で、ジョルジュ・ビゼーが作曲した劇付随音楽(または「組曲」)『アルルの女』も有名である。
人口統計
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2011年 |
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41 932 | 45 774 | 50 059 | 50 500 | 52 058 | 50 426 | 51 970 | 52 510 |
参照元:1999年までEHESS[1]、2004年以降INSEE[2][3]
観光
世界遺産
「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」として、市内に残る以下の古代から中世にかけての建造物が、1981年に世界遺産に登録された。
ゴッホの絵画のモデルとなった場所
モデルとなったカフェテラス。
1902年当時のラングロワ橋。現存しない。
その他の観光名所
- アルル・古代プロヴァンス博物館(Musée de l'Arles et de la Provence antiques) - アンリ・シリアニ設計
- ポルタイユ
- 市役所
- 古代美術館
- キリスト教美術館
- アルラタン博物館
- レアチュ美術館
- 古棺の小径
- サン・トノラ教会
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関係者
- 出身者
- 居住その他ゆかりある人物
姉妹都市
脚注
関連項目
外部リンク
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